明日、というか今日の24時、アニメ『かくしごと』が放送開始となるのを前に、私はかつてアニメの放送前に感じたことのない緊張感を覚えている。この気持ちをとりあえず何かにぶつけなければならない、そんな思いで深夜にちょっとだけこの文章は書かれている。
つまり何かといえば、久米田康治なのだ。大なり小なり我々は久米田を通ってきた。わたしは小なり、いや中なりくらいか。
高校生のときに絶望先生の単行本を買ったのが久米田作品との出会いだった。高校の帰り、乗り換え駅のそばに当時新しくできた大型のショッピングモール、その中に入っている書店でよく買っていたのを覚えている。もっと言えば、きっかけは『ハヤテのごとく!』だった。いわゆるポロロッカ現象だったのだ。ちなみにその後さらにポロロッカして改蔵にたどり着くことになる。改蔵は家から自転車で2,30分行ったところにある古本屋で単行本を集めた。
はっきり言って絶望先生は面白かった。今でこそ改蔵の方が面白いと言ってしまいがちだが、なにはともあれ絶望先生は面白かったのだ。当時はまだ世界が今よりグンと狭かったので、大したことないネタでも「自分だけがこのネタを理解できる」と思い込むのはたやすかった。そしてそれができれば、もう勝ちも同然だ。コマの中にネタを散りばめていたのも幸いし、ネタを「発見」するために何度も何度も読んだものだった。
女キャラが多いのも単純に良かった。自分は誰が一番好きか?うーむ。多分奈美か千里だと思う。奈美か千里で答えるの、好みが謎だ。ちなみにキャラソンだとあびるの『キリトリ線』が一番好きでよく聴いた。
当時はYoutubeでとにかく絶望先生の主題歌、キャラソンをひたすら聴いていた。(ハヤテの主題歌とキャラソンもひたすら聴いていた) だが、アニメ本編は結局あまり見た記憶がない。原作を読んでいるからいいやと思っていたのだろうか?絶望先生の曲だと上述の『キリトリ線』、『デッド・ラインダンス、デス』、『ほれっ・ぽい』、あとはやはり『空想ルンバ』、『強引 ni マイ Yeah~』だろうか。あとこのへんはMAD動画をひたすら見ていたので本当のOP映像がどんなのかいまだによくわかっていないところがある。『はっぴぃ☆なんちゃら』も好きでよく聴いていたが、いまだに絶望放送は聴いたことがない。
ここらで当時のように曲を流しながらまだまだとにかくダラダラと書き進めていく。その後絶望先生のアニメ3期は自分にとって記念すべき人生で初めて深夜アニメのリアタイをしたアニメだった…………と言いたいところだが、その1クール前にやっていたハヤテの2期の方が自分にとって初めてリアタイした深夜アニメになる。これ久米田は嫌がるだろうな…… ハヤテも自分にとっては避けて通ることのできない作品なのだが、それはまた別のところで。
私が絶望先生なるマンガを読んでいたことは家族にも当然知られるところであり、妹も久米田作品のファンであったため、録画されたそれは家族での夜の食卓で再生されたりもした(気がする)。父親は特撮・映画のオタクで母親はガンダムとかバトルフィーバーJが好きだったらしく、まあ別に趣味をとやかく言われたことはない。あと二人とも筋肉少女帯を知ってたりした。書いてたらまた見たくなってきたな。
ちなみにポロロッカ現象は他にもあり、絶望先生きっかけで筋肉少女帯にもハマることになった。サブスクにもあるので今でも普通に聴いてます。『レティクル座妄想』はクソみたいな満員電車でもよくお世話になったものだった。
中学のとき、シューベルト似の同級生が学校に絶望先生の単行本を持ってきていたのを覚えている。当時自分は絶望先生を知らなかったが、今思えば人生の重要なピースの一つだ。ちなみにハヤテの単行本を学校に持ってきていたヤツもいた。
高校のときも絶望先生の話ができる友人がいて、彼とは仲良くさせてもらった。ある日朝土砂降りの中登校したら警報が発令され、1時間目が始まる前に当日の休校が決まったことがあったが、その日彼を迎えに来た車に乗せてもらい、彼の母親に家の近くまで送ってもらったこともあった。その節は助かりました。
せっかくなので改蔵の話も少ししよう。上述のように絶望先生からのポロロッカで入り、家から少し離れた古本屋でせっせと単行本を集めた。ほんとに初期は下ネタマンガだったんだ……と思ったのを覚えている。パッと思いつくところだと、(笑)を付ければ大丈夫のネタや自作自演女優賞のネタなどが頭に浮かぶ。なんだかんだ名取羽美が好きだった。
ちなみに小学生のころコロコロコミックを読んでいて、中綴じの読者投稿大喜利コーナーみたいなところにオススメのサンデーマンガフローチャートみたいなものがあったことがある。質問に答えながらそれを辿っていくと、無事かってに改蔵にたどり着いたことを鮮明に覚えている。もう17,8年は前だっただろうか。あれ以上に的確なフローチャートを私は知らない。
結局その古本屋では最後の数巻は手に入らず、後に発売される新装版で初めて最終話を読むことになる。ちなみに新装版全巻を大学の友人から譲り受けたので全巻今家にあります。
その後、2012年夏に久米田が原作を、作画をヤス氏が担当した『じょしらく』のアニメが放送される。久米田が絵をかかず原作をやっているということで絶望先生でもよくネタにされており、名前だけは知っていたが結局マンガを読んだことはなかったので、アニメ化されるということで見てみようかな……と思ったのがターニングポイントだった。当時大学生となり一人暮らしを始めていたが、アニメ視聴の習慣はなかった。そんな自分が今のようにアニメを見て実況することを覚えたのは間違いなくじょしらくがきっかけである。そんなわけで、やはり久米田には足を向けて寝られないし、自分の人生は久米田なしには語れないと思ってしまうのである。
もちろんアニメの方も非常に面白く、画はかわいいのにセリフ回しだけで「久米田だ!」と思えたのは楽しかった。
久米田が画集を発売し、原画展を開催したことがあった。もちろん購入し、原画展は妹と一緒に行った。そこには交流ノートのようなものがあり、自分は今や立派にダメ絶対音感を獲得しました、みたいなことを書いた気がする。そのノートには単行本の読者投稿イラストコーナーでよく見る名前の方も書いておられ、それを見つけたときはとてもうれしくなったことを覚えている。最初はごく狭い中で好きだった久米田康治というマンガ家には、本当にたくさんのファンがいるんだと、当たり前といえば当たり前なのだが、そんなことを思った。ツイッターでもそうである。やはりというかなんというか、ツイッターに入り浸るようなオタクの中には久米田作品のファンというのはそれなりにいるのである。自分の歩んできた道は自分だけの道でもなんでもなく、大勢のオタクの一人でしかなかったんだと、答え合わせをさせられている気分だ。でも悪くない気持ちかもしれない。みんなで酒でも飲みながら久米田作品の想い出語りをやろうじゃねえか。
あー、最後にかくしごとの話をしよう。(せかどろは正直……あんまり覚えていない) 連載が始まり単行本で1巻を読んだときは、満を持してセルフパロディきたな……と思った。久米田ファンにはウケるし自分も楽しいけど久米田この路線書いてて嫌にならないかな、とも少し思った。4巻まででいったん放置してしまっていたが、この度アニメ化決定を機に5巻以降を一気買いし、この文章を書いている段階では6巻まで読んだところだ。
最初はセルフパロディ要素にばかり目がいってしまっていたが、単行本の描きおろしページも含め、父と娘の話というラインを頭の隅に置いて読むとまた違った味わいが加わることに気付いた。なるほど、確かにこれは名作になるかもしれない。そう思うとアニメ放送が途端に緊張してきたのだ。じょしらく放送から8年(8年!?!?!?!?!?!?!?!?)、まがりなりにも毎クールそれなりの本数のアニメを見続けて、アニメオタクの端くれを名乗ろうかという自分が、ここにきてついに久米田作品のアニメをリアルタイムで見ることになるのだ。自分のオタク人生、その最初期に大変世話になったものに、もういい年になってあらためてアニメという媒体で向き合うことに非常に緊張している。アニメ放送は、リアルタイム実況は、インスタントであり、そしてウソがない。そのとき、その瞬間、面白いと思えるか。どんな感想を抱けるか。試されていると感じる。あるいはそんなことを考えず、絶望先生を初めてテレビで見たあの日の深夜のように、じょしらくを見てツイッターにいそいそと書き込んだあの日の深夜のように、ただ素直に楽しめるのが一番いいに決まっている。でもまあ、今こんな文章書いてる時点で無理ですね。久米田の、久米田作品のファンはインターネットにいっぱいいるし自分よりずっとファンだという人はそれこそたくさんいるだろう。自分は南国すらほとんど読んだことがないようなオタクだ。それでも久米田作品アニメ化前日の夜にこんなよくわからん文章を書いているオタクはまあ「それっぽい」んじゃないですか。
久米田康治ファンのみなさん、仲良くしてください。
あー緊張してきた。久米田康治ワールドWikiサイトでも読むか。