ギャンブルをやっている

今週、ほぼ毎日麻雀をしている。

日曜の夜、大学時代に幾度となく卓を囲んだ友人たちから日曜の夜に突然LINEが飛んできて、曰く麻雀をするからはやくしろボケとどやされた。昨今の外出自粛にしびれを切らしたのだろう。

といってももちろん雀荘に集まるわけではなく、麻雀アプリのローカルルーム機能みたいなのを使ってやるぞということらしい。LINEのルームトークで通話をしながらアプリの方で打つのだ。私はちょうど録画でアニメを見ていたので、見終わるまで待ってもらって(待たせて)打ち始めた。その日の深夜アニメが始まるまでには抜けようと思っていたが、結局4,5時間で10半荘打ってしまった。もちろん、みんなでおしゃべりをしながら楽しくへらへら打つような麻雀はしない。通話ありと言っても飛び交うのは罵詈雑言と私の小ボケくらいであり、なんならほとんど無言でただ粛々と打つ。全員せっかちなのでテンポはかなり速く、とてもなにか別のことをしながら打てるものでもない。

 

その日は深夜1時半ごろ解散となったが、どういうわけかそれ以降毎日麻雀が開催されている。プロ野球も真っ青の過密スケジュールである。基本毎日4半荘。まあ2時間かからないくらいで、在宅勤務により通勤時間がなくなったと思えばトントンである。ただやるだけでもあれなので、昨日は帰宅部の円盤を流しながらやった。負けた。今日は委員長の配信を流しながらやった。うるさいと怒られたけど勝った。

ちなみに帰宅部円盤は麻雀覚えたての時期に手積みでやっていたころ、よく友人宅で流しながら卓を囲んでいた。そういう思い出があったりする。

 

 

私はどうもギャンブルは好きな質らしい。一昨年の皐月賞(ちょうど2年前だ)から始めた競馬も、気づけば2年、とくにここ半年ほどは毎週土日ほとんど休むことなく馬券を買っている。まあハマっているといって差し支えないだろう。競馬の方は始めて2年、合計でおそらく10万円くらいはマイナスなんじゃないだろうか。回収率で言えばたぶん7割台くらい。つまり馬券を30万円以上は購入しているということになる。月に1万円ちょいと思えばそんなものかなと思うが、ここ最近は月2~3万は馬券を買っている。ちなみに買うのはほぼ10~12Rのみ。未勝利戦とかはわからない。好きな馬はユーキャンスマイル。こないだ阪神大賞典で稼がせてもらったので。

 

 

ギャンブルの話で麻雀を出すのはわりとグレーなので、それに関してはここでは極力スルーでいきたいが、ともあれ自分はギャンブル気質な人間であることは間違いなさそうだ。自分の中に破滅願望が潜んでいるのも感じる。ちなみにパチンコはやったことがない。ドラクエⅣの闘技場でコイン賭けるやつはめちゃくちゃやった。

 

昔、小学生のとき、近所……といっても家から2駅、徒歩だと3~40分くらいの駄菓子屋で、当たり付きのガムかなんかをめちゃくちゃ、記憶によれば千円くらい買ったことがあった。何等が当たれば〇〇円!みたいな、今思うとそれ大丈夫なのか?みたいなやつだった気がするが、さすがに現金ではなかったかもしれない。一つ間違いない記憶としては、ハズレは「トランプのカード」だった。もちろん全52+1枚あるトランプのうちの1枚だ。

小学生にとって千円とは大金である。それをこともあろうにガキから金を巻き上げるだけの質の低いギャンブルに全部つぎ込んだのである。途中から駄菓子屋のおばちゃんだかおばあちゃんだかにも心配されたし、家に帰ってからバラバラで大量にある謎のトランプが見つかったところから顛末がバレ、親に相当怒られた。小学生のときの記憶なんてほとんどないが、あの日おばちゃんに心配され、金をすっからかんにして帰ってかなり怒られたことはなかなかはっきりと覚えている。あとこれはついでだが、夏まつりの夜店によくある、当たりくじの入ってるのかどうかもわからないくじ引きの屋台で貴重なお小遣いを使い切る小学生でもあった。

 

親から言われた。「あんたギャンブルとかめっちゃハマってまうタイプなんやからホンマに気ぃつけよ」その言葉を胸にここまで生きてきた。あの日の悔しさ、バラバラのトランプをポケットに詰めて帰る帰り道のあの情けなさ。それを忘れることはできなかったからだ。もうあんな思いはするまい、そう思ってここまで生きてきた。……はずなのに。

 

 

明日も馬券を買う。おそらく来週も麻雀を打つ。当たったときの気持ち良さを忘れられないから。上がったときの気持ち良さを忘れられないから。でも、破滅するまで馬券を買わないでいられるのは、きっとあの日があったからに違いない。

 

 

ギャンブルのいいところは、結局のところ運だってことである。結局のところ運だということはつまり、負けることを怖がる必要がないということだ。勝者と敗者の間にあるのは、運でしかないのだ。どれだけ頑張っても、どれだけ時間をかけても、そんなことは運の前では小さなことである。もし、頑張れば必ず勝てる、強ければ必ず勝てるというものがあるとするならば、それはすなわち、負けることは頑張っていないということであり、負けることは弱いということになる。そんなものに、わたしは恐ろしくてとても足を踏み入れることができない。自分が頑張っていないということを、自分が弱いということを、毎度毎度突き付けられてそれでも努力を重ねられるほど自分は負けず嫌いでもないし、辛抱強くもない。努力なんて運の前ではちっぽけなものでないと、恐ろしくて自分は努力なんてできないだろう。

 

 

人生というやつも、なかなかに運要素が強い。努力教のみなさんは、努力は実を結ぶと信じているから努力をするのかもしれないが、わたしはそんなことはないと信じている。そんなことはないと信じているから、たまには頑張ってもいいかなと思える。

 

わたしは意味のないことが好きだ。役に立たないことが好きだ。努力なんて、大きな運の前では意味のないことだということを嫌というほどわからされたこれからの人生で、自分は今度こそ、努力を好きになれるだろうか。