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アニメ『けものフレンズ』はなぜ考察班を生み出したか

 「アニメ『けものフレンズ』はなぜ考察班を生み出したのか。この謎を解明するため、我々取材班はジャパリパークへ飛んだ———」

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2017年冬アニメもおおよそが3話までの放映を終えたが、その中のイエローサーバル、……もといダークホースと言えばそう、『けものフレンズ』だ。

動物をモチーフにしたかわいい「フレンズ」たちの大冒険が繰り広げられるこのアニメは、一見すると子供向けのようにも思える。しかしこのアニメにはところどころに不穏な空気が流れている。打ち捨てられて朽ちたようにしか見えないバス、索条はあるが搬器の見当たらないロープウェー、かばんちゃん以外のフレンズたちと一切の言葉を交わさない「ラッキービースト」、そしてかわいいフレンズたちの大冒険が繰り広げられる本編には似つかわしくない、ただ廃テーマパークの写真が流れるだけのED映像……

 

このアンバランスさをはらんだアニメは瞬く間に一部の視聴者の心をつかんだ。またそうした視聴者たちの中から #けものフレンズ考察班 という者たちが現れ、あるものはTwitter上のつぶやきというかたちで、またあるものはブログの記事というかたちで、各人がアニメけものフレンズに対して「考察」を繰り広げている。その「考察」は、アニメの世界観に関するものであったり、このアニメの裏に隠された本当のメッセージに関するものであったりと様々である。かくいう私も、このアニメの1話を見たときからこのアニメについていろいろと考えを巡らせずにはいられなかったりしている。

 

アニメ『けものフレンズ』についての考察は、特にブログ記事においてまとまった文章として読むことができる。まだ3話放映時の段階でありながら、先行研究はすでにそのあたりのアニメよりも充実しているといえるだろう。

そこで少し視点を変えてみよう。 なぜアニメ『けものフレンズ』はこうした考察班を生み出したのか。言い換えれば、なぜ人はアニメ『けものフレンズ』を考察するのか。

 

視点を変えてみることは研究においても大切なことである。もちろんアニメを視聴するときにも。

 

「なぜアニメ『けものフレンズ』は考察されるのか」という観点に立ち、その理由を少しばかり考えてみたい。この文章は「けものフレンズ考察」であり、同時に「けものフレンズ考察考察」である。

 

 ちなみに「けものフレンズ考察班」については以下のわさすら氏(id:wasasula)の記事が参考になる。

wasasula.hatenablog.com

 

 

・ED映像という「メッセージの場」と考察の土台

 #けものフレンズ考察班 というタグがTL上に踊ったのは、おそらくED映像の観覧車をチェルノブイリの観覧車ではないか?と指摘した @nanarokushiki 氏のツイートがその端緒であったように思う。

 

(※のちに本人によってチェルノブイリではなくペルボウラリスクの廃棄された観覧車と訂正。またタグ自体はそのツイート以前から存在)

 

このツイートをきっかけにしてけものフレンズ考察は本格的に始まったといっていいだろう。そしてまた、このツイートがきっかけになったことは実に納得のいくことでもあった。

というのは、ここで指摘されているのは他でもない「ED映像」だからである。ED映像というのは、本編よりも、そしてOP映像よりもスタッフによる自由度が高いと言えるだろう。アニメによっては、アニメ本編とは関連性の薄いインパクト重視のEDが採用されたりする。つまりは遊びの許される場なのである。

そのED映像にこのアニメはあろうことか「実写の」「廃棄された観覧車」をチョイスした。その後も映像にはキャラクターは一切映らず(よく見るとキャラクターの形をしたようにも見える金型が映っている)、延々と人気のない遊園地のようなものが映される。これはなにを意味するのか。

自由にやれるED映像で、このアニメの(表向きの)魅力と言えるフレンズたちを映さずに「あえて」この映像をチョイスした。いくらインパクト重視でも、文脈と関係のない、ましてやキャラクターすら映らない映像を流すにはインパクトなどとは別の理由を考える必要がある。つまり、これはどう考えても制作側のメッセージと受け取るしかない。「このアニメはこういうアニメですよ」と。

廃棄されたバスなど世界観の裏設定をにおわせるものは本編中にもあったわけだが、ED映像がその仮説を確信に変えたと言っていい。これを受け、考察班は背中を押されるかたちで各々考察を繰り広げはじめたと考えられる。

また、このツイートによって暗示されたことは、「アニメのジャパリパークは実は廃棄されたテーマパークである」ということである。これはアニメ放送前にネタにされていた、「けものフレンズはアニメ放送前に原作のソシャゲが終わっている」ということと奇妙なつながりを見せる。すなわち「アニメの世界はソシャゲが終わった後の荒廃した世界ではないか?」 という仮説だ。この「荒廃した世界観」はある種『けものフレンズ』考察の土台となり、考察班の初めの共通理解となると同時に、そこからさまざまな考察をする上での足がかりともなったのだ。

 

 

・考察という行動と「人間であること」

 けものフレンズ考察ブログの中でも大きな反響を呼んだものの一つは骨しゃぶり氏 (id:honeshabri) によるこの記事だろう。

honeshabri.hatenablog.com

アニメ『けものフレンズ』は動物を知ることで人類とは何かを探求していくアニメだという視点。大変興味深く、また大いに同意できる。(ちなみに私もこの記事が出る前の1話放映時点で似たような指摘をした(オタク特有の対抗意識))

 見返してみたらあんまり似たようなことではない気もする。お詫び申し上げる。

 

さて、それはそれとして。この記事で指摘されているように、かばんちゃんは1話で持久力、投擲能力をもって人間のもつ他の動物に対する優位性を示した。さらに2話では大きな河に即席の橋を架ける。まさに人間のもつ「知恵」を示した格好だ。3話では草をむしって地面に大きな絵を描く。それはまさにナスカの地上絵。このアニメは着実に人間の「人間」たる部分を描き、1話で示された「空を飛べない」「泳げない」「速く走ることもできない」という他の動物に対する劣位性を補ってあまりある人間の優位性が他のフレンズたちに、そして視聴者にも示される。実際、かばんちゃんの発想力や機転はいち人類から見ても素晴らしいものがある。人間だからといってなかなか簡単に思いつけるものではない。

『けものフレンズ』は人類を描くアニメである。そしてアニメの中で人類の持つ優位性が展開されていくのを見たとき、視聴者は何を思うだろうか。こう思うはずだ。「私も人類である」「ジャパリパークではなく21世紀の社会に生きる自分が発揮できる、人類のもつ優位性とは何だろうか」と。いわば、かばんちゃんに「触発」されるのだ。

 

そこで「考察」という行動を考えてみると、それは大雑把に言うなら「作品を読み解き」「それを言語化する」ことである。いずれも人間にしかできないことだ。特に「言語」そして「文字」というものは人類の発明したものの中でも極めて重要である。文字を持つことで「記録」そして「伝達」が可能になり、人類の文化は飛躍的に進歩したといっていい。アニメ本編でもいずれ「文字」についての言及がなされるのではないかとにらんでいる。

さらに言うならば、インターネットで自らの考察を「共有」することもまた当然ながら人間ならではである。かばんちゃんの活躍を見て自らの中の「人間」というアイデンティティを呼び起こされた視聴者は、自らが人間であることを規定するため「人間的」な行動を無意識のうちに欲していたと考えても不思議ではない。21世紀の社会には紙飛行機で注意を逸らすべきセルリアンはいなかったが、文字を紡ぐキーボードと不特定多数とつながるインターネットが存在していた。人々の中の「人間性」が呼び起こされた結果がこの「けものフレンズ考察」なのだ。

 

 

・無償の愛が愛を呼ぶ

「けものはいてものけものはいない ほんとの愛はここにある」

 アニメ『けものフレンズ』OPテーマの歌詞の一節である。私の大好きな歌詞でもある。

 

このアニメには愛があふれている。それも無償の愛だ。1話でかばんちゃんを助けたサーバルとカバ、2話のコツメカワウソとジャガー、3話のトキとアルパカ。みな快く頼み事を受け入れ、また見返りなどを要求することもない。だれも除け者になどされない。楽しければみんなでたのしー!と笑うし、うれしいことがあればみんなで喜ぶ。そう、このアニメは優しさにつつまれている

この無償の愛に絆された視聴者は、この愛を誰かにわけてあげたいと思うだろう。しかし21世紀の社会にはジャパリパークを抜けて図書館に行くかばんちゃんの助けになる機会は存在しない。それではその愛を誰にぶつければいいのか。……つまりは、愛を『けものフレンズ』という作品そのものにぶつけた結果が「けものフレンズ考察」なのだ。

 

アニメを見て、あるいは何度も見返して、そして考察を深めるという行為。それは作品への愛の形だ。見るのも、考えるのも、そしてそれを文章にするのも時間を消費して行う行為である。そしてその考察は愛ゆえに作品の魅力に迫ろうとし、そしてそれを他者に伝えようとする。愛に絆された視聴者が愛に包まれ、そして愛を拡散する。「けものフレンズ考察」は、ある面ではアニメから始まった愛の連鎖なのである。

 

 

・意外性は話題性

なんだかスピリチュアルな話をしてしまった。最後にもう一つ。単純な話ではあるが、結局は「けものフレンズ考察班」一行矛盾感がウケたということだともいえる。

「けものフレンズ」というその存在を知らずともなんとなく脱力してしまうような名称と「考察班」という妙にカッチリした言葉が合体すると、途端にそれは異様な魅力を放つ言葉になる。アニメ『けものフレンズ』はサブタイトルがすべてひらがな(しかも「さばんなちほ」ではなく「さばんなちほ」(!)であり、ますます脱力感を誘う)だったり、本編の方も一見するととても頭を使って見るタイプのアニメとは思えなかったりと、「考察」とは程遠そうなのである。そんなアニメに対し謎のタグをつけてああでもないこうでもないと考察を繰り広げる姿は意外性をもって人々の目に映り、それは注目を集める。注目を集めれば「なんだよこれwww」のような中身のない反応も含め、自然と話題にのぼる。そうして興味を持った人が新たにアニメを見始め、考察に参加する……

 

つまりは、一見したところでの考察との無縁さが功を奏し、「考察されているだけで面白い」という状況をつくりだした

このことが面白いことが大好きな人たちにひっかかり、結果『けものフレンズ』は異様なまでに「考察」されることとなったのだ。

 

 

 

 

 

 

以上、「けものフレンズ考察」について「考察」したが、もちろん、アニメ『けものフレンズ』を考察するべきとも、考察するべきでないとも言うものではない。

このアニメは考察しがいのあるアニメであるし、考察意欲をかきたてられるアニメであるとも思う。しかし忘れてはいけないことは、アニメは考察されるために存在しているのではないということである。

アニメ『けものフレンズ』の試聴体験を通して「たのしー!」になること、大切なことはそこにある。

 

にゃるら氏(id:nyalra)による「たのしー!」な記事↓

nyalra.hatenablog.com

 

 

やっぱりアニメって「たのしー!」

 

2016年テレビアニメ、話数単位で選ぶマイベストテン(20本ノミネート連続視聴方式) ―第5位~第1位―

 

nun-tya-ku.hatenablog.com

 前半↑の続き、第5位から第1位です。では第5位から。

 

 

第5位:『ハイスクール・フリート』第10話「赤道祭でハッピー!」(春)

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2016年は「はいふり」の年だった。はいふりカメラ、はいふり言えるかな、「武蔵です。」「五十六がなんとも磯ROCK!」…… はいふりが生み出したものは枚挙にいとまがない。

そんな中、「はいふり」コンテンツの中で先陣を切った春アニメ『ハイスクール・フリート』から「はいふり」らしさが存分に詰め込まれた「赤道祭回」、第10話を選出。

はいふり」の魅力はとにかくキャラクター、キャラクターの魅力が「はいふり」の魅力である。オリジナルアニメでありながらここまで「キャラアニメ」を突っ走ったのが『ハイスクール・フリート』であった。しかし、このアニメの最大級に不親切なところは、「劇中でキャラクターの説明をしない」ことであった。艦橋要員はまだしも、その他の乗員たちは一部を除いてほとんどモブ同然の扱いだった。

しかし、である。「はいふり」、『ハイスクール・フリート』を十分に楽しむためには、最低でも晴風乗員31人+2人(ヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク、知名もえか)全員のことを知っていなければならない。それらのキャラクターを覚え、親しむためのツールは豊富にある。それがはいふり公式サイトキャラプロフィールページであり、公式アプリ内のはいふりカメラであり、はいふり言えるかなであり、公式コミカライズであった。視聴者は積極的にそれらのツールを使い、自主的にキャラクターに親しむ必要があったのだ。受動的態度ではいけない、楽しむためには積極的な態度が必要なのだ。「楽しませてもらおう」なんて視聴態度ではダメなのだ。不親切さをほじくるのではない、楽しむために自分は何ができるのかだ。いつまでも「楽しませてもらおう」という態度では、今に見るアニメがなくなってしまうだろう。来期にはBS11でパッケージリマスター版の再放送がある。今からでも遅くない。キャラクターのプロフィールを覚えるのだ。全部覚えれば、こんなに楽しみにあふれたアニメはない。

さてさて、『ハイスクール・フリート』第10話の話に戻ろう。この回はもはやOVAのような、まさに「お祭り」回であり、艦橋要員もその他の乗員もほとんど同じくらい出番があり、みんなにセリフがあるという点でもとにかく「はいふり」ファン冥利に尽きる回であったと言える。必死になって覚えたキャラクターのプロフィール(例えば八木鶫と知床鈴の実家が神社であること、柳原麻侖の好きな食べ物が焼肉であること、などなど)が次々と言及され、「それ知ってる!」とうれしくなってしまう。ご褒美のような回だ。

この回の見どころはそれこそ無限にあるが、あえて3点に絞らせてもらうとすれば、「納沙」「出し物」「黒木と岬の清算」である。

まず「納沙」であるが、仲の良かったヴィルヘルミーナが晴風を離れてしまった寂しさを埋めるように副長のましろにべったりな納沙を見てほしい。「シロちゅわ~ん」じゃないよほんとに。納沙のうっとおしさ、(少し離れて見ておきたいような)かわいさ、納沙というキャラクターの魅力が存分に発揮されているのであるが、これは黒瀬ゆうこさんの演技が絶妙だ。うっきうきで出し物(仁義ある晴風)の準備をする納沙、砲雷科の主砲ものまねに心底興味なさそうによそ見しながら「コアラの鳴き声じゃないですかねぇー」と言う納沙、岬や知床が絶妙に棒読みの中一人(納沙の)本気を見せて演技をする納沙……。はじめは浮いていた(まあずっと浮いているが)納沙が、副長を犠牲にしながら少しずつ晴風に溶け込んでいる様はやはり見逃せない。

次に「出し物」である。あそこのシーンは「はいふり」が好きでないと見れないが、「はいふり」が好きなら最高のシーンに映る、そういう点で見事だった。出し物のレベルも等身大というか、準備期間のまったくない中で彼女らが即席で考えそうな、そういうレベルのものを出していて好感しか持てない。砲雷科の主砲モノマネに目を輝かせる西崎と立石、そしてうれしそうに答える勝田。勝田は航海科なのにそういうのわかるんだ…!みたいなところも発見があってよい。個人的には武田のが似てるっぽくて好きである。山下、勝田、内田、八木、宇田による航海ラップも、完成度を含めて絶妙だ。客席に振って回答を待つ間前後に揺れているのがなんともシュールな笑いを誘う。次に西崎・立石による漫才。これは元ネタがあってちゃんとエンディングにもクレジットされているのであるが、この漫才を見ていた砲雷科、その中で武田が「私たちの砲術長が人前であんなに堂々と…!」と言うシーンがある。このセリフから、立石は普段無口だけれど、砲雷科のみんなにはちゃんと慕われているんだなということが垣間見え、大変にいいセリフで大好きなのである。最後の艦橋要員たちの劇。めちゃくちゃ好きなガヤが一つ入っているのでそれを是非耳を澄ませて聴いてほしい。ましろが「カシラ!」と言いながら納沙をかばって切られる演技のところで、「よっ!宗谷屋!」というガヤが入るのである。酔っぱらったようなその声はおそらくマッチ酔いした等松によるものであろうと思うが、副長の晴風での立ち位置を表しているようでもあり、大変好きなものだ。

「黒木と岬の清算」について。黒木は入学前から宗谷にあこがれており、宗谷ではなく岬が艦長であることにずっと不満を抱いていた。(入学前の話は前日譚コミックス『はいふり』でチェックされたい) そんな黒木は相撲での直接対決で岬に勝ち、そして対戦後自ら岬に手を差し伸べる。このときの表情もまたいい。大したことではないと思われるかもしれないが、ラストバトルに向けてこの確執は絶対に取り除く必要があった。この清算のシーンを、お祭り回に見事に組み込んで自然にやってのけたところには惜しまぬ拍手を送りたい。しかも、これを仕組んだのは柳原である。柳原は幼馴染の黒木が宗谷にべったりなことをさびしく思っていたが、スネた自分を黒木が見つけてくれたことで自分も黒木のために何かしたいと考える。そして柳原は艦橋要員たちが出し物をやっている間黒木に言うのだ。「クロちゃんがスカッとすること」をやる、と。柳原はちゃんとここの確執をわかっていた。その流れがあっての、あの相撲なのだ。

5位なのに本当に長々と書いてしまった。言いたいことは無限に出てくるがここまでにしておきたい。私が「はいふり」をどれだけ好きかが伝われば幸いである。

 

 

第4位:『ばくおん!!』第12話「もしものせかい!!」(春)

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バイクさながらぶっとんだ展開となぜかいい話につなげる力のバランス感覚が絶妙だった『ばくおん!!』だが、その中で一本選んだのはこの最終話。

まずはバイ太との再会シーン。まさかこんなところで再開できるとは佐倉羽音ならずとも私も思っていなかった。最終話ということもあり、これまでに登場したキャラがしっかり画面に出てくるところが、やはりこの最終回のいい最終回たる証左であろう。

ただ、この回で一番良かったシーンは誰が何と言おうとバイクのない世界で一人「バイク」に乗り、口でエンジン音を言うシーンだ。「佐倉羽音、いきます!」も含め、ここの上田麗奈さんの演技には舌を巻いた。今年でグンと上田麗奈さんのことが好きになったわけだが、そこに佐倉羽音というキャラクターを抜きにして考えることはできない。口エンジンと言えば第1話で自転車を漕ぎながら佐倉羽音は口エンジンを言っていた。それを踏まえての最終回、バイクのない世界で「バイク」に乗る佐倉羽音の後ろ姿はものすごいエモーショナルである。

この「もしものせかい」の中では、バイクのない「合理的」な世界が広がっている。早く移動するなら自動車があり、自分の力で移動するなら自転車がある。今さら第三の乗り物なんて。そのとおり、その通りだ。でも、佐倉羽音は言う、「オートバイのない世界は、ほんの少し寂しい」と。「自転車は優れた人間にしか乗れない」とこの世界の恩紗は言う。もしこの世界に優れたアニメしかなかったら、頭のいいアニメしかなかったら……。その世界に『ばくおん!!』はあるだろうか。その世界は果たして楽しいだろうか。私は、今のこの「バイクのある」世界が大好きだ。あなたは、どうだろうか。

 

 

第3位:『ビッグオーダー』第6話「オーダー!つなげ、魂!BIG connect」(春)

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異常なテンポと異常なセリフ回し、異常な展開力と最高の劇伴。それが天才的で奇跡的な絡み合いを見せ、アニメ界のオーパーツとでも言うべき「異常」な作品が出来上がった、それがこの『ビッグオーダー』だったと思っている。個人的には今年一番の衝撃だったかもしれない。

このアニメの魅力はなんといっても上でも挙げた「異常なテンポ」「異常なセリフ回し」「異常な展開力」そして「最高の劇伴」であると考えている。この第6話はその魅力がいかんなく発揮された回だった。

まずは「異常なテンポ」に関して。この回はエイジが壱与と二人で出雲に行くところから始まる。最初はのんきに出雲そばをすする二人。洞窟に入って遭難、エイジと壱与はちょっといい雰囲気になったかと思いきや…… というところで出雲の巫女登場。前半部分はまあ早くはあるがテンポ自体はありえる程度の早さである。本番はここから。後半は巫女と蹴鞠勝負。二人の気持ちを合わせて勝負に勝ったと思いきやダイバー姿のオッサンにしか見えない次の敵の登場、そのまま戦闘に入り、決着。こんどこそ終わりかと思いきやEDに入る前になんかよくわからん幹部っぽいのが出てきて次元を横断して出雲の巫女が切られて死ぬ。

ここで終わりである。異常すぎる。普通は蹴鞠勝負が終わったところ、あるいは次の敵が登場したところあたりで一旦切るだろう。しかしこのアニメは次の敵との勝負もサラっと詰め込み、一気にやってしまえとばかりに巫女が死ぬところまでやってしまった。この、「まあここで終わるだろう…」という、これまでアニメを見て染みついたテンポ感覚というものを裏切り、何が起こってるのかよくわからないままに畳み掛けてガンガン話を進めてしまう。この感覚はこのアニメでしか味わえない。これは「異常な展開力」とほぼ同じでもある。

「異常なセリフ回し」については劇中のセリフを抜き出せばわかってもらえるだろうか。「与太こいてんじゃねえ!」「お前を妊娠なんかさせねえから!」「蜜壺をドミネート」「イカレポンチじゃねーか!」「お汁がとまんない」「なに言ってんだコイツ」…… これはすべて6話の中で出たセリフである。こんなセリフの洪水を聞けるアニメは、というか聞ける体験は余所ではできないだろう。またこれに関してはエイジ役の森田成一さんの演技が本当に最高でクセになる。

「最高の劇伴」は本当に最高。以上のような異常なテンポ、異常なセリフ回しの後ろで流れる軽快でダサカッコいい劇伴を聴いているとなんだか楽しくなる。見たことのある人ならわかるはずの、あの曲である。音楽なので言葉で書くより実際に聴いてもらうしかない。ビッグオーダーの虜、そしてあの曲の虜だ。

また、この回では壱与がクレジット順で2番目に上がっている。鈴、壱与、瀬奈という三人のヒロインの使い方、そしてそれと連動したこういうクレジット順のいじりは上手い。個人的に壱与が好きということもあり、そして上述した魅力がいかんなく発揮された回ということもあって選出したわけだが、『ビッグオーダー』第6話、堂々の2016年第3位である。

 

 

第2位:『蒼の彼方のフォーリズム』第7話「刺される前に刺せ!」(冬)

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「負けてからが、本当の勝負」 架空のスポーツを題材にして見事な少女の心の揺れ動きを描き、そして試合では青い海、青い空、白い雲、そしてそこに描かれるグラシュの軌道が本当に美しく映え、「青春」を描いたアニメとして視覚的にも抜群のものを見せてくれた『蒼の彼方のフォーリズム』から、みさきの心が折れてしまった、「負けてからが」の部分を見事に描いたこの第7話を選出。

この回はみさきが強く意識し、自身も破れた相手である「絶対王者」真藤と、無名の新人乾との決勝戦から始まる。みさきはまるで自分に言い聞かせるかのように、真藤が負けるわけがないと言う。真藤は最強だ、だから自分が負けたのも仕方がない、むしろそんな真藤と互角に渡り合えたんだから自分はすごいのだ、そう思ったままでいられるために、真藤が負けるなんてありえないと言う。

だが結果は真藤の負け。試合中苦しそうな表情を見せる真藤とまったく無表情の乾の対比も上手い。乾の「美しい」FC、「バードケイジ」である。相手を鳥かごの中においやる技、そして各務先生が「進化の袋小路に迷い込む」と言ったように、それ自身がFCそのものを籠の中に閉じ込めてしまうような、見事なネーミングだったと思う。この回に限ったことではないが、FCの試合中のグラシュのSE、そしてアツい劇伴はこのアニメの魅力を大きく担っている。

自分をただ一つ慰めていた「絶対王者真藤」は崩れた。真藤の負けに激しく動揺するみさき。しかし明日香は言う。「すごいですね!これも、フライングサーカスなんですね」と。また、試合中明日香は言っていた。「すごいのは乾さんの方です!」と。みさきは真藤の負けだけではなく、真藤を負かした乾を「すごい」と言えてしまう明日香にも激しく、激しく動揺する。ここのみさきの「理解できない」「理解したくない」という描写がほんとうに素晴らしい。

みさきは一人買い物へ。フードコートで流れていたテレビは真藤の敗北をニュースとして流す。そこにいた名もなき女の子たちは言う。「真藤先輩、負けちゃたんだって」「へえー、そんな天才が海陵にいるんだー」 「天才」、この言葉がみさきにひっかかる。そして私の大好きなバス停のベンチのシーン。「天才」だと思っていた真藤も努力しているのだということを知るみさき。その上真藤はあの敗北に対して、心を折られるどころか「怖いって…… 楽しいからだよ」と言う。フラシュバックする明日香の顔。そして真藤は決定的な一言を言う。「楽しいと思えなくなったら、僕はやめるよ」そして真藤はバスに乗り込み、先に進む。一方みさきは、進むのをやめ、その場に留まる。強くなる雨の音が、何よりも雄弁に先の展開を物語る……

無垢に強くなっていく明日香に対し、みさきはすごく人間くさいキャラクターだ。そんなみさきの心がポッキリ折れてしまうまでの過程を、みさきのまわりのキャラクターを使って、丁寧に、丹念に、美しく描いた第7話だった。「負けてからが、本当の勝負」本当にいいキャッチコピーだ。そして最高にこのアニメを表現したキャッチコピーでもある。このキャッチコピーを考えた人と酒を酌み交わしたい。ちなみにみさきの「本当の勝負」は11話で乾との対戦という形で描かれる。こちらも本当に最高な回となっている。

 

 

第1位:『アクティヴレイド -起動強襲室第八係-』第5話「消失のポーカーフェイス」(冬)

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 2016年で一番好きな一本に選んだのは、『アクティヴレイド -機動強襲室第八係-』より「ポーカー回」だ。

この作品全体の魅力を語りだすと止まらなくなってしまうので手短にするが、近未来のパワードスーツ、「ウィルウェア」をめぐって、パロディやオマージュにあふれた魅力ある一話完結の物語たちが続いたと思えば、終盤でそれらの話に無造作に張り巡らされていた伏線をものの見事に回収していく爽快感。特に2期の方では1期からの伏線も大量に回収していき、一層その爽快感は強かった。

さて、この第5話の話に入ろう。この回は何と言ってもダイハチがポーカー勝負をする相手、予備校数学教師小野寺の魅力が抜群だ。最初はオドオド、次第にキリッとした顔つきで淡々とポーカーに勝ち続け、かと思えば本性を表してからはペラペラ饒舌に身の上話なんかも話してしまう。ブラッディーマリー、もとい円との最終戦では負けフラグをきれいに立てる舌の回りを見せ、挙句の果てに「敗残者が」とまで言い放つ。そんな自信満々の小野寺が円に負けたときの顔が上の画だ。一瞬にしてこんなに顔が崩れてしまう小野寺が大好き。

黒騎と舩坂さんのダメギャンブラーっぷりも大変魅力的。20万負けてもヘラヘラ飲み代を奢る黒騎。そして酒と女とギャンブルで身を持ち崩したという舩坂さん。二人とも典型的なギャンブルをやってはいけないタイプの人間である。ただ悲しいことに、こういう向いていない人間ほどハマってしまうのがギャンブルというものなのだ。この二人、前半はあれだけボロボロだったのに、円のターンになると突然知ったようにポーカーの場の解説をし始めるのが本当に面白い。舩坂さんが小野寺と対戦しているときの「今やまるでデスマスク」発言も好きだが、小野寺と円の対戦、その最終局面において二人が「いや、決着の流れに向かっています」「ああ、今来ているのはビッグゲーム!」と言うところが本当に好き。お前らさっきまでボコボコに負けてたのになんでそんなカッコつけてるの!?特に黒騎なんて本当に一瞬で負けたのに……

そして大西沙織演じる天野円、その最大にして最高の見せ場がやってくる。「できるの?ポーカー」というはるかの問いにビシッと親指を立てる円のかわいさよ。小野寺と互角に渡り合うも押され始め、15分のタイムを申し込む円。15分経って小野寺はつぶやく。「15分…… 私の勝ちか」戻ってきた円、もといブラッディーマリーはさっきとは一段変わった艶やかな声で言う。「いいえ、あなたの負けよ」(!!!) このときの円の両脇にいる、ストライクインターセプター姿で外からは表情の見えない黒騎と「どっひゃ~」という舩坂さんの顔の対比も抜群にいい。そこからは円ではなくブラッディーマリーの声で役を作り、局面は最終盤へ。

場の雰囲気に乗せられたのか、ここにきて円も名ゼリフを連発する。「お前にギャンブルをやる資格はない。お前はギャンブルに溺れた溺死体、ただ闇を漂う者。ギャンブルの醍醐味は、ギャンブルを離れて光の世界に帰還することにある」「あとこれはね…… わざとよ」「ゲームの終わりは、次のゲームの始まりでもある。また会いましょ」

その後の飲み会の最後、舩坂さんのかけた「趣味はほどほどにね。弟さんや妹さんのためにも」という言葉に対して円が見せた笑顔が、100点満点の笑顔だった。

この回はセリフの強度が段違いだった。やはりギャンブルをすると人間の本性が出るのだろうか、ほとんど全員場にのまれたかのように名言をどんどこ生み出していく。また、ポーカーのルールがわからないとあさみが言うシーンでは、並のアニメならルールの解説に少し時間を割いただろう。しかしこのアニメはそんなことはしない。そもそもポーカーのルールをわかることはこの回を楽しむにあたってさして重要なことではない。そもそもそんなものはアニメに求めることではない。インターネットで自分で調べればいいことだ。なんでもかんでも自分で調べる前に人に答えを求める姿勢に再考を促しているのである。

そして劇伴。これは第3位に選んだ『ビッグオーダー』、第2位に選んだ『蒼の彼方のフォーリズム』もそうだったが、劇伴のいいアニメはいいアニメ、いいアニメは劇伴がいいアニメだ。ブラッディーマリー登場から流れるあの劇伴は、テンションをグイッと上げてくれた。

「ポーカー回」の歴史に一つ新しい一本が加わった。この回は何度見ても変わらずポーカー勝負でテンションが上がる。30分のエンターテインメント作品として今年はこの一本が第1位、文句なしだ。

 

 

 

以上、私が選んだ今年のベストテンである。いかがだっただろうか。

正直に言うと今年は去年に続きアニメを見た本数は少なかった。30分尺のアニメに限ってしまうと完走したタイトルは50本に届かないくらいだろうか。こんな程度で今年の10本を選んでしまったことに関しては素直にお詫びを述べたい。あれを見てないのに10本選んでも不十分だろ、というご指摘は重々承知だ。

だが、それでも今年のアニメは本当に充実していた。このベストテンも、どの回も本当に最高で、私としては自信を持って、胸を張って今年のベストテンだと言える。

 

さて、20本にノミネートしたものの苦渋の決断でベストテンに入れられなかった10本もここに記しておきたい。順番は今回の視聴順に従う。

・『ViVid Strike!』第8話「勝者と敗者」(秋)

・『ふらいんぐうぃっち』第5話「使い魔の活用法」(春)

・『蒼の彼方のフォーリズム』第11話「わたし負けない!」(冬)

・『最弱無敗の神装機竜』第7話「少女の真実」(冬)

・『少年メイド』第7話「学問は一日にしてならず」(春)

・『アクティヴレイド -機動強襲室第八係- 2nd』第10話「訣別の宴」(夏)

・『フリップフラッパーズ』第8話「ピュアブレーカー」(秋)

・『ハルチカハルタとチカは青春する~』第7話「周波数は77.4MHz」(冬)

・『灼熱の卓球娘』第5話「あなたとドキドキしたいから」(秋)

・『クロムクロ』第14話「祭りに踊る羅刹」(夏)

 

そして、あみだくじで決めたベストテンも含めた20本の視聴順は以下の通り。

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クールごとの偏りはまったく考慮していなかったが、見返してみるとノミネート作品では冬・春・夏・秋がそれぞれ、6本・5本・4本・5本。ベストテンの中ではそれぞれ、3本・3本・2本・2本。うまい具合にバラけた。豊作だ不作だなんだと世のオタクは言うが、ちゃんと毎クールおもしろいアニメが放映されていることの表れだろう。

 

紅白が始まってしまった。2016年も終わりだ。2017年はどんなアニメに出会えるのだろうか、今から楽しみで仕方ない。来年も良いアニメライフを送れるものと信じている。ただ来年こそ視聴数を元に戻したいところではあるが……

 

みなさん、良いお年を。

 

 

 

2016年テレビアニメ、話数単位で選ぶマイベストテン(20本ノミネート連続視聴方式) ―第10位~第6位―

 

さて、2016年が暮れてしまう。というわけで、興味はあったがこれまで自分ではやったことのなかった、「話数単位で選ぶ今年のテレビアニメ10本」というやつをやってみようと思う。

しかし、ただ記憶を呼び起こして10本選んでちょちょいと感想めいたことを書いて終わり、ではせっかくの年末、いささか面白みに欠ける。そこで、以下のようなレギュレーションを考えてやってみた。

 

「今年の10本」に選びたい話数を20本選び、これをノミネート作品とする。

同タイトルからは2本までとする。ただしできるだけバラけるのが望ましい。

20本の試聴順をなんらかのランダム方式で決定する。(私はあみだくじを利用した)

試聴順に沿って20本をできるだけ一気に視聴。

改めて見直した感想、そして初見時の記憶などをもとにノミネート20作品の中から上位10本を選ぶ。上位10本については順位をつける。(なお、ノミネート作品の中に同タイトルから2本選んでいた場合、その2タイトルを両方とも選出することは構わないが、できるだけバラけるのが望ましい)

 

このテのものでは10本選出したあとに順位をつけることは一般的でないように思える。しかし、そもそも10本選出している時点で10位と11位以下との間に順位、優劣をつけているのは明確なのであるから、それならばいっそ選出された10本の間に順位をつけてもよかろう、いやむしろせっかく20本見返すのだからとことんまでつけてやるぞという気持ちで順位をつけることに決めた。

まず、選ぶだけでなく見返そうと思ったのは、やはり秋クールのアニメに比べれば冬クールのアニメは記憶もだいぶ薄れ、感想を書くことはおろか自信を持って選出することすらままならないと考えたからである。また20本選んだのはパッと思い返しただけでも「今年の10本」に選びたい作品はゆうに10を超え、記憶のあやふやなまま10本選んでも納得のいくものにはならないだろうという考えのもとである。もちろん20本でも収まりきらないのだが、一気に見返すことを考えれば1日の試聴数としては20本が妥当なところだと思い、20本とした。もちろん時間がなければ15本でもいいし、アニメ視聴体力に自信があれば30本ノミネートしてもいい。

そして試聴順をランダムで決定。こういう主観たっぷりで選ぶようなものは(吹奏楽コンクールなんかを考えるとよいかもしれない)、順番によって左右されるところがどうしてもある。終盤に見たものの方が印象に残りやすかったり、いいものの前後は印象が薄くなったり、などということである。最初に見たものを基準にしたりすることもよくあることだろう。初めは時系列順、逆時系列順、はたまたサブタイトルの五十音順なんかも考えたが、やはりランダムで決定した方が運の要素も絡まっていっそう面白くなるのではないかと考え、このようにした。結果から言えばこれがよかった。試聴順を眺めているだけでなんだかウキウキしてくるし、自分で恣意的に選んでいてはこうはならないだろうという順番になって楽しい。

20本一気見(途中ご飯を食べに外出し、帰ってから数時間寝たので一気見ではないが)はやはり想像していた通り大変楽しかった。2016年を振り返っているなという実感もあった。

 

ちなみに20本のノミネート作品の選び方であるが、私は記憶を頼りにしつつ、自分のTwilogを漁って大雑把に選び、その中から少しずつ選別していった。これを選ぶのも大変ではあったが、「20本にかかるかかからないかの作品が10本に入ることはそんなにないだろう」と考えるとわりあい気持ちは楽に選ぶことができた。それはそれとして見返したい話は20本以外にもたくさんあったわけだが……

 

 

御託が過ぎた。悪い癖である。それでは以下、10位からの発表である。

 

 

 

 

 

 

 

第10位:『競女!!!!!!!!』第9話「ジャングルジムの覇者!!!!」(秋)

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 唯一無二の"尻"作こと『競女!!!!!!!!』より、東西戦第1戦目の回。

元柔道日本代表宮田さやかと彼女の競女挑戦を許そうとしない父との和解を熱いバトルといつもの競女テイストに組み込みながら描いた屈指の名回なのであるが、やはりこの回は井口裕香演じる七瀬奈美が名脇役として一際光っている。

さやかに対し柔道から「逃げた」とこれでもかというほどに何度も劇中で言い放ち、私はあなたと違って一途に競女に向き合ってきたと言う七瀬は、他のスポーツに対して心のどこかで劣等感を覚えているように感じられてならない。「元柔道日本代表」というどこに出しても恥ずかしくない肩書きを持った宮田さやかに対しては、おそらく心のどこかで激しいコンプレックスを感じていたに違いない。競女が柔道から「逃げた」先だと言うことは、無意識のうちに競女が柔道より下であると認めているようなものだ。そしてそんな七瀬に対し「私がここにいるのは、競女が好きだからよ!!!」と言い放つさやかが最っ高にカッコいい。「好きだから」やっぱりこういう言葉には弱い。好きであることが何より大切だ。

またさやかの父も、競女を下にみていた気持ちは同じだろう。おそらく父は競女を品のないスポーツだと、いやそもそもスポーツだとも認めたくなかったかもしれない。そんな父が、娘の頑張る姿を目の当たりにし、会場全体が娘を応援している中にあり、そして最後勝った後に見せた娘の顔を見て、グッと親指を立てるシーンは最高だ。

そしてなによりも、柔道とさやかと競女がつながった最後の「乳首一本背負い」のシーン。「柔道はお尻を使うんだ」と指導する父との回想シーンも挟まって、宮田さやかにしかできない技、宮田さやかにしかできないシーンである。これだけいい文脈を持たせておきながら、あの画を出してくるのは反則だろう。泣き笑いで顔がグチャグチャになってしまう。

そして忘れてはならないのがさやか母である。子どものころのさやかが競女場に行った回想でさやかを連れてきていたのは、誰あろうこの母であった。おそらく母は競女が好きなのだろう。さやかが瀬戸内競女養成所に入るにあたっては母が味方になってくれたんだろうなあと考えるとまた一段といい文脈になる。それはそうとさやかが勝ったときにさやか母が見せた、親指人差し指中指での三本指ピースがめちゃくちゃかわいい。

ただワードと絵面のパワーに圧倒されるだけではもったいない、見事見事な一本であった。

 

 

第9位:『ファンタシースターオンライン2 ジ アニメーション』第12話「境界を超えるRPG」(冬)

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 サブタイトル「境界を超えるRPG」が秀逸な、このアニメの最終話に相応しい回。

PSO2アニメは、ゲーム原作アニメなら当然ゲームの中の世界を舞台にするだろうという先入観をぶち壊し、徹頭徹尾現実世界とゲーム世界の地続き性というものを描いたアニメであったわけだが、上に挙げた屋上のシーンでのリナ会長のセリフはまさしくそのテーマを端的に表すセリフであり、お気に入りのセリフだ。

リナ会長がダークファルスに囚われているシーンでは、まさかの全裸レイプ目触手拘束。あまりに私を狙い撃ちにしている。まあそれはそれとして、イツキがリナ会長を助け出そうとするときの「生徒会長…!先輩……!…………、リナあああああああああああああああああああ!!!!!」の三段活用が最高すぎる。ここもお気に入りのシーンだ。

その間、現実世界でも変わらずに文化祭が賑やかに行われている描写をしっかり入れてくれるのもこのアニメらしさが出ていて本当に良い。イツキたちはこの世界を守るために戦っているんだということを、静かに強く伝えてくれている。まあもちろんリナ会長を助けたいという思いが強いわけではあるが。

後夜祭挨拶でのリナ会長の「エブリバディー、イェーイ!」は言わずもがなだが最高にかわいい。このアニメを見て諏訪彩花さんがグンと好きになった。

最後の卒業式後のシーンは、これまでの話の中でイツキとリナ会長が話をするときに印象的な舞台として登場してきた屋上を別れのシーンに設定するのがニクい。いや、別れのシーンではない。オンラインゲームがあれば、いつでも、どこにいても会うことができるのだということをリナ会長が、そしてアイカが教えてくれる。完全に100点満点の最終話であった。

余談だが、本編後に流れる「君は見てるだけで、満足なのか!?」のCMは、本編の完成度が高すぎたために本当に見てるだけで満足になってしまったことでCMとしての力を失ってしまった稀有な例である。

 

 

第8位:『タイムトラベル少女 ~マリ・ワカと8人の科学者たち~』第3話「反骨のフランクリン」(夏)

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 教育アニメという面を持ちながら、近未来科学SFエンターテインメントとしても高い完成度を見せてくれた本作からこの一本。

本作はマリ、ワカたちの他に、個性豊かな科学者たちもキャラクターとして大きな魅力である。個人的には科学者たちのなかでは4話に登場するボルタが一番好きだったりするのだが、この3話に登場するのはベンジャミン・フランクリンである。

このアニメ、ドアサアニメらしく(?)メインターゲットたる小学校高学年から中学生あたりにとって大切で身近な「勉強」の描写を惜しまない。さすがアニメーション制作が教育事業を中心とするワオ・コーポレーションの系列なだけはあり、その描写はリアルだ。

さてこの回は英語の補習のシーンから始まる。「なぜ勉強なんかしなきゃいけないのか」 これは誰もが一度は思ったことではないだろうか。この補習のシーンで出てくるのが今回の科学者フランクリンの言葉「Well done is better than well said.」である。

補習から帰ったマリはワカと旬兄と共に研究所の地下室を見つけ、過去にタイムスリップする。そのマリが向こうで最初に出会ったのはそう、黒人奴隷のジャンであった。翌日朝から洗濯をするジャンを見てマリは一言「ジャンは学校に行かないの?」ジャンが奴隷であり奴隷は学校に行ったりしないことを聞かされるマリ。この話の最後に現代に戻ったマリは言う。「勉強できるのが普通じゃない時代があったんだ」

こんなものは大人による論理のすり替えでしかないと思うかもしれない。確かにそうだ。「なぜ勉強なんかしなきゃいけないのか」という問いの答えにはなんらなっていない。いやでもしかし、女子中学生たるマリはこの経験を通して素直に勉強してみるかという気持ちになっているのであり、そのこと自体が重要なのではないか。英語、歴史、そして科学。三教科を巧みに組み合わせて「勉強」への向き合い方を考えさせるこの構成は、ため息が漏れるほどに美しい。

また、全編に通ずる点でもあるが、この回で見逃せない点がもう一つある。それが教会の描写だ。

科学の発展を軸に据えたこのアニメでは、教会は事あるごとに科学の「敵」として描かれる。なかでもこの回は特にその色が強い。避雷針設置を認めないばかりか、神の怒りを鎮めて雷を止めるためとして、けが人にも休まず祈ることを強要する神父に対し21世紀人のマリが憤りを露わにするシーンは、屈指の名シーンだと思っている。それは前近代において高い社会的地位にあった「無知蒙昧」な宗教者に対する、科学社会の21世紀生まれ、社会的地位は何もないただの中学生による「啓蒙」の試みのシーンといえる。「タイムトラベル」によってこそ、このクロスした状況が出来上がる。設定を死なせず、活かす。これができるアニメはつよい。

実験のシーンでは「絶対にマネしないでください」との注意テロップ。こういうところで、ああこのアニメはやっぱり低年齢層が見るように作っているアニメなんだよな、と再確認できてよい。低年齢層向けであることが作り手側と視聴側との共通理解としてあるからこそ、わかりやすく、直球な演出を素直に受け止め、素直に称賛できるのだ。

 

 

第7位:『ViVid Strike!』第4話「リンネ・ベルリネッタ」(秋)

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 今年最大の「暴力」アニメ『ViVid Strike!』より最高の「暴力」回を一つ。

対戦相手を病院送りにしても表情一つ変えない、そんなヒールとして描かれてきたリンネの過去回である。

これはもう見たときの、やるせなさと爽快感と喪失感と高揚感のグチャグチャに入り混じったあの感情が恐ろしいほど魅力的、そう感じてしまった。あの、普段ならばどうやっても倫理観が邪魔して気持ちよくは思えない下駄箱前での暴力シーンを描くにあたり、その倫理観を取っ払うためにただただ目を背けたくなるようないじめのシーンを描いた。そうしたことで最後の暴力シーンに倫理観ストッパーを働かせなくさせ、あの高揚感とも爽快感とも言いたくなるようなドス黒い感情を湧き出させることに成功してしまった。

最後のシーンはSEもいい仕事をしている。明らかにヤバい音、美少女アニメには似つかわしくないあの音を惜しげもなく聞かせてくる。しかもそれは、誰あろう孤児院時代あんなに無垢な笑顔を見せていたリンネ・ベルリネッタその子によって出された音であるのだ。

また、最後のシーンで下駄箱に蹴りつけるところで右手で腕を折った子を持って引きずっているのが本当に最高。さらにその子の顔を迷いなく踏みつけるところは、あのトイレでスマホが踏まれたシーンを思えば納得の一撃。こんな風に、絶対に許されるはずのない暴力に「納得感」を与え、あまつさえ上記のような「爽快感」「高揚感」を与えてしまったところが、この回のヤバいところなのである。

 

 

第6位:『アンジュ・ヴィエルジュ』第9話「誰よりも速く」(夏)

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「それぞれが呼び合って目覚め出す……」『アンジュ・ヴィエルジュ』から、白の世界 -システムホワイトエグマ- の決着回。 

白の世界は数式の世界。というわけで(?)この回では作品中でも屈指のパワーワードがガンガン登場してくる。これが一つ大きな魅力である。

「無限大の半分の距離」「無限大の距離でも、速度が無限大になれば約分されて到達できる(!!!)」「よって無限に加速が可能」「重力スリップストリーム!?」

こんなことを大真面目に語られてしまう。特に「速度が無限大になれば約分されて到達できる」は最高。そんなの聞いたことないけど、妙な説得力があるのがこのアニメのすごいところだ。

他にこのアニメらしい愛おしさが出ているところは、ステラが発進するときのなんだかショボいF1のスタート信号機のようなディスプレイ、まさにF1そのもののエンジン音、そしてなぜか荒いドットで描かれるハートとワクチンだ。なんでああなったのかわからないが、抜群にこのアニメらしさが出ているし、抜群に面白い。

以上のことはそれとして、やはり紗夜がステラをビンタするシーンは何度見ても泣いてしまう。寿美菜子さんの演技、そして涙で崩れた紗夜の顔の作画が素晴らしい。道具だと思ってたら腹を立てたりなんかしない。そう言う紗夜の顔は、紗夜の声は、本当に悲しそうなのだ。

……なんか足りないなーと思いながらEDへ。Cパートは待ってましたいつものアレ。裸エプロンで爆発オチ(ハート雲)には脱帽しかない。

 

  

このまま第1位まで行きたいところだったが、調子良く書いていたらあまりに字数が多くなりそうなので、第6位まででいったん切ることにして、第5位から第1位は後編として分けることにする。少々お待ちいただきたい。

 

 

2016年12月31日19時47分、後半書けました

 

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映画『ポッピンQ』感想 ―23歳男子大学院生の中の15歳女子を呼び覚ませ―

 

『ポッピンQ』を観てきた。

正直そこまで期待はしていなかった。飲みに行く約束をしていて、その前になんか映画でも観ますか、くらいのノリだった。映画の話をきっかけに今年のアニメの振り返りでもしよう、そのためにはむしろそのくらいがちょうどいいだろう、というほどの気持ちまであったかもしれない。

素直に謝りたい。

結論から言うと映画は抜群にいいもので、結局居酒屋ではほぼ終始『ポッピンQ』の話をして楽しい時間を過ごした。

 

まだ観てないよ、という方には、是非余計な前情報なしに観てほしい。声優誰々が出るらしいし観るかー。このくらいのスタンスで観てほしい。なんかダンスするらしいけどダンスなー、どうなんだろうか。ダンスで世界救うってなんだよ。そう、このくらいのスタンスだ。

 

ただ一つだけ、絶対にこれだけは心に留めて観てほしいことがある。

大人の目線で見ないこと。自分を主人公たちと同じ15歳の女子にして見ること。

一つと言いながら二つだが、まあこれは二つで一つである。

 

それも、斜に構えた15歳ではない。かわいいものを見てかわいいと言い、カッコいいものを見てカッコいいと言い、ストレートを見て真っ直ぐだと言う、そういう15歳である。いきなり15歳になるのは無理だろう。それでいい。だが最後まで実年齢のあなたのままで見ないでほしい。上記のことを心に留めていれば、物語が進むにつれ、どこかしらの地点で15歳になれるはずだ。何言ってんだコイツ、という方は、ちょっとイメージトレーニングをしてから映画館に足を運んでほしい。斜に構えた見方ではなく、いつの間にか同じ目線に立って素直に楽しむイメージ。誰しもそんな経験があるはずだ。それでもイメージできなければ仕方ない、この映画でそうなってもらうほかない。

 

せっかくお金を払って時間をかけて映画館に行って映画を観るのだ。評論家気取りなんかのためにお金を無駄にするのではなく、めいっぱい、最大限に楽しんでほしい。人間はそれができるはずだ。

 

 

映画が始まり、はじめは23歳の自分が見ていた。だがいつの間にか23歳の自分はどこかにいってしまい、映画館の席に座って画面を見つめるのは15歳女子の魂だった。それでも時折23歳が顔をのぞかせ、シニカルな笑いを見せようとする。いやしかし15歳女子はそんなものははね飛ばし、ストレートを真っ直ぐに受け、真っ直ぐに涙を流す。ただ悲しいかな、23年間生きてきて顔に染みついたオタクスマイルだけは魂が変わってもどうにもならず、現実世界にいるのはニヤケ顔が収まらないままにボロボロ涙を流し続ける23歳である。

それでもいい。たとえ外見は変わらないとしても、魂まで凝り固まらなければ。

 

以下、ネタバレを抑えずに感想を軽く記す。未見なら、できれば以下は見ずに『ポッピンQ』を観てほしい。未見にもかかわらず以下を読んでしまったら、償いとして『ポッピンQ』を観てほしい。『ポッピンQ』を感じるのに、作品を見ずに私の言葉をもってそれに代えることはできないからである。嗚呼、宮原監督の注いだ愛情、熱情、時間に比して、私の小手先で紡ぐ言葉のなんと陳腐で退屈なことか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できればとか書きましたが、未見でしたら本当に以下は読まずに映画を観てほしいです。どうしても読みたくなったら、上の「これだけは心に留めて観てほしいこと」を心に留めながら映画館で『ポッピンQ』を観てください。そうしたら、思う存分全部読んで構いません。いやむしろ読んでください。

あ、ただ最後の5行だけは未見の方にも読んでほしいです。目をつぶって一番下までスクロールすれば大丈夫ですが、好奇心に負けて目を開けてしまうかもしれません。自信がない方はやっぱりここで引き返していただいて、映画を観てから思う存分スクロールしてください。

 

次こそ、以下ネタバレあり感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正直中盤までは、退屈とまでは言わないにしても、世界観説明やキャラの掘り下げがあまりに不十分ではないだろうかという気持ちがあった。主人公伊純は別にしても、その他の4人は現実世界でのほんの少しの描写のみでとても感情移入とまではいかない。ましてや沙紀に至っては終盤まで碌にセリフもなく画面にもほとんど出てこない。ポッピン族の世界が多数の時空のハブ時空だとして、なぜ伊純たちの時空にだけ時のカケラが4つとも(レノを入れれば5つ)あったのか、他の時空はどうしたのか。というようなことだ。

23歳の自分が観ていた間の感想である。まあオリジナル作品であり尺も限られているということ、また一応は低年齢層もターゲットに組み込んでいるところを思えば十分目はつぶれる範囲であった。これらの点については、いくらでも指摘ができるだろう。最後まで23歳だったら、「まあよかったところもけっこうあったけどさすがに穴が多いかな…」みたいなしょうもない感想で終わっていたのかもしれないと思う。

 

だが沙紀とレミィを助け出すためにアジト(?)に乗り込んだあたりからスイッチが切り替わったらしい。そのあたりからは終始ニヤケたままラストまでいってしまった。

アジトでの戦闘で覚醒した4人は特殊能力に目覚める。まあここも23歳が見たら「?」なわけだが、ここでの特殊能力で4人の個性みたいなもの、4人のキャラクターをどう動かしたいのか、ということがストンと入ってきて、もうあとは15歳女子になって楽しむだけになった。「キグルミ」の中にポッピン族のちっちゃいのが詰め込まれてて、結び目を外せば開放されるというギミックも素直で好きだった。だからだんだんデカい敵が増えるのか、と。

 

そこからは「それ好き…」というシーンが立て続け。冒頭の両親に反抗する伊純に対しておじいちゃんが言った言葉を繰り返してみるシーンとか、橋が落ちるまえに渡り切るシーンとか…… 特に後者はベッタベタの展開なのだけど、初めは伊純に対し(というか全員に対し)心を開いていなかった蒼が伊純を信頼しているところとか、過去の苦い記憶に向き合わされて、そしてそれを乗り越えるところとか、抜群。あまりに都合のいいシーンすぎるのだが、あそこであれを素直に楽しめないような大人ばかりなら、この世はあまりに息苦しすぎると思ったりする。

 

屋上の黒沙紀のシーンも大変よかった。あったのかなかったのかわからないような、いやそれでもおそらくはあれが確かにそうだったんだろうななどと思う、そんな青春を本当にいつの間にか遠いところに置き去りにしてしまった、そんな過去のティーンエイジャーたちにグサグサ刺さるシーンだった。永遠に今をやり直せる、そんなことができたならいったいどうなるだろうか。大人は過去に戻りたいと言い、永遠にやり直せるならいいじゃんと考えるものだ。私もそう。昔に戻って永遠にやり直せるなら、なんて考えない大人はいない。でも、沙紀は前に進むことを選ぶ。もはや完全に15歳女子になっていた私は大きく頷く。「そうだ!そうだ!進む先は前だ!明日だ!!未来だ!!!」

 

そして奇跡のダンス。もう15歳女子なので言うことがない。最高。「ダンス3分のための1時間半です」と宮原監督はパンフレットのインタビューページで語っている。その通り。さすが監督、最高の分かり手である。

 

現実世界に戻って卒業式前後のシーン。個人的にはここが最高潮である。ボロボロどころかダバダバ泣いていた。伊純がナナに謝り、そしてナナは今度も負けないからと言ったあと向こうを向いたまま手を振るシーン。その向こうを向いたまま手を振るところがいい。先に行くぜ、ついて来いよ、追い越してみな、嗚呼あれぞ15歳。12歳でも、18歳でもない。15歳の味がある。そして両親とおじいちゃんとのシーンも素直に良い。ひねくれていて反抗期、だけどやっぱりその中心には子どもの素直さを持ち合わせている。それが15歳ってもんだろう。12歳は子どもに過ぎ、18歳は大人に過ぎる。23歳なんて15歳に比べれば干物もいいところ。23歳のままあれを理解しようってのは、まあ無理なわけである。いわんや30代をや。ただし40代くらいになって子どもを育てる経験をすれば、また違った視点から15歳がわかるんだろうなあという気持ちもある。そして後輩女子美晴との卒業証書筒をバトンにした(!!!)リレーのシーン。もうね、大好き。しかもそれも普通にバトンをつなぐのかと思いきや、走り抜けて「追ってこい!」である。未来を託すのは次の世代なんかではない、自分自身なのだ。何度も言うようで大変申し訳ないが、18歳ならこれは成立しないだろう。

 

もちろん伊純以外の4人のシーンも良い。楽しそうにピアノを弾く小夏、合気道に絞ったあさひ、落書きを消し、晴れやかに踊る沙紀。クラスメイトにサインをせがまれる蒼には笑ってしまったが。蒼、陰で嫌われるタイプじゃなくて陰で人気あったタイプなんだな。まあめっちゃイケメンだしかわいいしそうなるよな……

 

そしてEDの歌の歌詞である。普段なら恥ずかしくてまともに聞いていられないようなズバズバストレートド直球。「さよなら。ありがとう。卒業という名のはじまり 新しい明日が待っているから 僕たちは旅立つ」だぞ!? これ、この映画を観た後だったらドバドバ泣けてしまう。すごい、これが映画の主題歌ってやつなのだ。歌詞についてはダンスのときの歌ももちろんそうだ。(正確にはこっちの方が主題歌らしい)

 

 

終わりだと思った。終わりだと思ったはず。最後のあれに関しては、すごい、これ、やっちゃうんだ、でも、すごいなあ…… という感想。肯定的感想。最後の一言、これやっぱりすごいな、と。

「君は、どうする?」

どうする?なんて言われたって…… まあもういっぺん観に行きますけど……

 

 

正直まだまだ言いたいことはたくさんある。軽くと言いながら全然軽くないのはまあよくあることだ。声優のキャスティングは見事だったと思う。木戸衣吹はいないが山崎エリイがいる、小倉唯はいないが石原夏織がいる。後輩は田所あずさ父親小野大輔。頭のいいキャラクターに井澤詩織をぶつけながら、心を閉ざした消滅願望少女にはもうやっぱりやっぱり黒沢ともよ。ああキャスティングの妙。ここにもいたかM・A・O、そしてそして若々しいポッピン族に溶け込むベテラン新井里美

 

このくらいにしておこう。沈黙は金、雄弁は銀、オタクのしゃべりは一回戦敗退だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは最後に。パンフレットに載っていた新井里美さんのメッセージが、私がこれまでつらつら書いていた文字たち全部よりも何よりも、私の言いたいことを言ってくれている。それを引用させていただいて終わりとしたい。

 

「10代の女子、これから10代になる女子

かつて10代だった女子や男の子にも観てほしいです」

 

 

劇場版艦これ感想

劇場版艦これを観に行き、これがまたかなりよかったので感想を書いていきたいと思います。(含ネタバレ)

 

まず個人的に最高だったところを二つ。一つは本編始まる前、KADOKAWAロゴの後に映った劇場のスクリーンいっぱいの

 

                   d i o m e d é a

 

ディオメディアフリークとしてはもうこの時点で観に来てよかったな…と思いました。本編を見てからのエンドロールの制作:diomedéa もなかなかじーんとくるものがありましたが。

 

もう一つは鈴谷・熊野にセリフがあったシーン。ブリドカット艦が大好きなのでTV版で(それなりに人気艦なのに)出番のなかった二人がちゃんとしゃべってよかった…… でも戦闘シーンはなくて残念でした。ちゃんと艦隊編成での紹介はされてたんですけどね。「これは…神戸牛ですの?」

もちろん夕張ちゃんも元気にツナギ姿で登場。あとは初風と舞風を……おねがいします……

 

 

他、特に言及しておきたいのは、

・天龍:なんといっても刀に手をかけるシーンが最高。しかもその刀で敵の弾をはじき返す。深海棲艦が「マジ…!?」みたいなリアクションしてるのがまた最高。

・春雨:セリフはないけど映ってました。やった。

時津風天津風:ノーマークでしたがまさかの登場。それなりにセリフもあってうれしかった。艦これ声優小倉唯爆誕。

・瑞鶴:かわいい。やっぱりかわいい。加賀さんとの絡みもよいもの。

・大淀:モールス信号の似合う女、大淀。

妖精さん:仕事してた。かわいい。

 

ストーリーとしてはTV版での如月轟沈に絡めた艦娘と深海棲艦の関係の話が軸になっていました。そしらぬ顔でTV版のあれを本筋に絡めてくるのは単純によかったと思います。終わりのない戦いを終わらせる唯一の方法が「私たちが誰も沈ます、深海棲艦を全滅させることができれば」と言うときのドヤ感が好きです。でもそれってゲームでプレイヤーがやってることそのものなんですよね。しかし捨て艦戦法をやり続ける提督がいる限り、この戦いは終わらない……

如月が徐々に深海棲艦へと姿を変えていく描写はなかなかクるものがありました。特に如月が水道場で発狂し腕をタワシでこするシーンは大変良かった。その前のシーンで号泣する睦月と合わせ、日高里奈さんが泣く演技が好き。

 

如月轟沈を本筋にもってきたことや、「中部方面の指揮に出ているから」という提督がいないもっともらしい説明(よくよく考えれば他にも提督はいるだろうと思うわけだが)、大人しかった大井・北上コンビなど、TV版で不評をかった点についてはわりと意識したのかな、と思いました。意外と気にしいなところも嫌いじゃないです。

 

いまだに艦これといえば2013年秋イベを引き合いに出してしまうので、アイアンボトムサウンドが舞台になったことはけっこう反応してしまいました。あの頃は探照灯も照明弾も、ましてや夜偵なんかなくてな…… それはそうと夜戦シーンでの探照灯や照明弾の演出はすごくよかったです。

 

エンドロール後の如月帰還のシーンは正直蛇足感が否めませんでした。あれを入れるなら吹雪出撃シーンで『吹雪』をワンコーラスでいいからかけてほしかったというのが正直なところ。ただこれもあのままでは如月提督に申し訳ない、という思いだったのかなと。あの髪飾りをつけている如月を見れたのは単純にうれしくありましたが。

 

全体で言えば優良な映画でした。特に艦これ、艦娘が好きなら、やはり劇場のスクリーンで彼女たちが動いてしゃべって戦闘しているのを観られるというだけでも楽しめると思います。

私は元々TV版も十分楽しんだのですが、劇場版作ってくれてありがとうという気持ちです。

まあただ、まだ出ていない艦たちを出してほしい気持ちはやっぱりあります。先に挙げた初風舞風以外にも、長良型軽巡とかちとちよとか飛鷹隼鷹とか潜水艦たちとか…あと朝潮ちゃんが見たいですね。朝潮型好きはガチと言われますが、僕は朝潮型が好きです。

 

2016年のアニメ映画大豊作の流れに乗ってここまで来ています。あと残すは『好きになるこの瞬間を』と『ポッピンQ』ですね。後者には一抹の不安もなきにしもあらずですが、前者は大丈夫でしょう。というスタンス。

 

アニメ『灼熱の卓球娘』における記号と名付けとキャラクター、そしてメインとモブ

○はじめに

今期のアニメも中盤にさしかかろうとしている。

今期もそれぞれに魅力的なアニメがあり、アニメ視聴を楽しんでいるわけであるが、今回はその中でも注目しているアニメの一つ、『灼熱の卓球娘』について少し書いてみたい。

 

この記事を書いている時点でアニメは5話まで放映され、私も5話まで視聴した。視聴していて気付く方も多いと思うが、このアニメの特徴の一つに、「記号的表現がふんだんに使われていること」というのが挙げられる。この「記号的表現」の多用、そしてキャラクターの名付けに見られる特徴も手掛かりにしつつ、このアニメが意識するところへの自分なりの一考察を加えてみたい。

 

なお、私は原作未読であり、この文章においてはアニメ5話までで出てきたシーンのみを参照して書いていること、また原作つきアニメという性質上、アニメからでなく原作からも指摘できるようなことも含まれているであろうということは初めにおことわりさせていただきたい。

 

 

第一章 キャラクターと記号的表現

「はじめに」で書いたとおり、このアニメでは記号的表現(アニメ的表現と言い換えてもよい)が多用されている。そして、それらの多くはキャラクターと紐付ける形で用いられることに気付く。

例えば印象的なのはメインキャラたちの髪留めである。上矢あがりは上向きの矢印、旋風こよりは犬のくわえる骨、後手キルカは白い髪留めを✕印のようにして、そして出雲ほくとはニンジンの髪留めを、常に着用している。またキルカは白いバンダナを巻いているし、ムネムネ先輩はカチューシャをつけている。天下ハナビに関しては髪留めではなく首から下げた御守りがその役割を果たしている。

わかりやすいのは上矢あがりだろう。後にその名前との関連性も述べるが、上向きの矢印の髪留めは彼女の上昇志向、ここでいうところの「誰よりも強くなりたい」「エースでいたい」という気持ちを鮮やかに主張している。キルカの✕印も彼女のカットマンというキャラクターを示すものであろうし、こよりの(犬がくわえるような)骨は、彼女の人についていくような性格・プレイスタイルを表している。また、犬は彼女の優れた「嗅覚」を意味するというのもありそうだ。他のキャラについてはまだはっきりしたことは言えないが、追々それらの意味するところが鮮明になるかもしれない。注目して見ていきたいし、注目して見てもらいたい。

また、これらのメインキャラ6人にはそれぞれを表す色、そしてまさに記号が充てられている。これらはOP映像にはっきりと示されているので確認していただきたいのだが…

まず、色についてはそれぞれのキャラクターの髪色と一致していると考えていいだろう。あがりは紫、こよりは赤、キルカは黒、ムネムネ先輩はピンク、ハナビは黄色、ほくとは水色である。

OP映像では6人のメインキャラクターにそれぞれ立ち絵のカットがあり(タイトルロゴ前にこよりとあがり、タイトルロゴ後Aメロでハナビ、ムネムネ先輩、キルカ、ほくとの順)、そこで画面を縁取るように線が引かれているのがわかるだろう。この線の色は、こよりが紫、あがりが赤、ハナビは黄色、ムネムネ先輩は黒、キルカがピンク、ほくとは水色となっている。

ここで気付く。ハナビとほくとはいいとして、その他の4人は色が個人に充てられた色(髪色)と異なっている。さらによく見ると、あがりとこより、そしてキルカとムネムネ先輩がそれぞれお互いに色を交換した形になっている。これが意味するところは、あがりとこより、キルカとムネムネ先輩がそれぞれペアであること、そして、記号的な表現が用いられるマンガやアニメにおいては自らのアイデンティティとも言える、大切な「自分の色」を交換するということは、その二つのペアにおいてお互いがお互いになくてはならないほどの強いつながりを有しているということを示している。本編を見る限りではハナビとほくともペアになってよさそうなものだが、どうやらこの二人は少なくとも今のところは、前述の二ペアほどには強いつながりはもっていないということらしい。

そして、OPの同じカットの同じ縁取り線を見れば各々に充てられた記号も見て取れる。件の縁取り線は画面と同じ長方形であり、よく見ると一瞬変化しているのがわかるが、その変化はキャラクターによって違っている。こよりは丸、あがりは矢印、ハナビはトゲトゲ、ムネムネ先輩はおっぱいのような半円、キルカは十字、ほくとは湯気のような形である。もはや言うまでもないが、これらがそれぞれのキャラクターに充てられた記号である。まず、こよりの丸は髪の左右につけたおだんごを表しているものと考えられるか。あがりの矢印は上で言及したとおりである。ハナビのトゲトゲも髪型からきているのだろう。ムネムネ先輩の半円はおっぱい。キルカの十字はカットマンというプレイスタイルを表したものだ。ほくとの湯気は彼女がしゃべるときに画面に出てくる湯気である。

もちろんこれらのイメージカラー、イメージ記号はOPだけでなく本編でもそれを見ることができる。このように、各キャラクターを表す記号的な表現はかなりはっきりと画面に示されている。もちろんこうしたキャラクターと記号とを結びつける表現方法はどんなアニメにも多少なりともあろうが、このアニメにおいてはそれが意図的に多用され、強調されているということがはっきりと言える、そう考えるのである。

 

第二章 キャラクターと名付け

 ・第一節 メインキャラクターの名付け

第二章では「名付け」について考えてみたい。まずはメインキャラクターについてである。

まず「上矢あがり」である。

上矢の「上」はもちろん第一章でも言及した彼女の上昇志向とつながる。「矢」は彼女を表す記号たる「矢印」だ。「あがり」は「上がり」と通じ、こちらも彼女の上昇志向を示す。名字にも名前にも出てくるのだから、彼女というキャラクターにとって「上昇志向」はよほど強い意味をもっていることが察せられる。さらに「上」の字は彼女の得意技であるループドライブとも通じている。

次に「旋風こより」。

「旋風」は「旋風(せんぷう)」、雀が原中学卓球部に彼女がやってきたことで部に旋風が巻き起こったこと、ひいては女子中学卓球界に旋風を巻き起こすことをも予感させる名づけだ。「こより」については、おそらくは紙縒、クシャミをわざと出すために使われるアレである。どうやらこの紙縒、丈夫な紙を原料にしたものは冊子の綴じ紐や、髪を束ねるために使われるらしい。つまりはこの雀が原中学卓球部を束ねる、そういった意味が込められていると思われる。

「ムネムネ先輩」(大宗夢音(おおむね むね))。

言うまでもなく彼女の持つ豊満な胸が生まれたときから約束されたような名付けである。本名の大宗夢音も、「大きな胸」、あるいは「おムネ」と通じる。(どうでもいいが後者の言い方はクレしんっぽい) 身体的特徴だけでなく、彼女の持つ包容力や母性と強くリンクした名付けとなっている。

「後手キルカ」。

「後手(うしろで)」の名字はコートの後ろで戦うカットマンとしての戦い方とつながる。そして「キルカ」は「切る・斬る」でありこちらもカットマンという彼女のプレイスタイルを表している。彼女はこうした名付け、そして前述の記号も含め、カットマンというプレイスタイルをこれでもかというほどに強調されているのがわかる。

「天下ハナビ」。

「天下」はお天道様のような明るい性格と通ずる名づけか。「点火」とも通じて彼女の速攻型というプレースタイルを表しているともとれる。「ハナビ」も「花火」のぱーっと明るい性格を表しているだろう。「花火」に「点火」とすればしっくりきそうだ。

「出雲ほくと」。

「出雲(いつも)」はしゃべるときに「いつも」湯気(=「雲」)が「出」るところ。「ほくと」はそのときの擬音「ほくほく」であるだろう。「ほくと」はおそらく北斗七星の「北斗」と通じると思うのだが、浅学にして天体に関する伝承などの知識には乏しいため、こちらとの関係は指摘することはできない。いずれ明らかにできるかもしれないし、わかる人はすでにわかるのかもしれない。もしかすると名付けに北斗七星との関わりはないのかもしれないが。

 

 ・第二節 モブキャラクターの名付け

続いてはいわゆるモブキャラたちの名付けについてである。このアニメにおけるモブ、それはすなわち雀が原中学卓球部員たちのうち、上述のメイン6人以外となる。

では彼女らの名前をエンドクレジットや校内ランクの表から引いてこよう。これで全員ではないが、次のようになる。

「田口たんぽぽ」「佐々木さつき」「吉川よもぎ」「鈴木すみれ」「湯川ゆり」「結城ゆず」「角田つばさ」「檜山柊」「桜田さくら」「七瀬奈緒美」「八戸はつみ」「宮藤久美」……(※)

これらに共通する特徴は何であろうか。まず気づくことは、名字の読みの一文字目、そして下の名前の読みの一文字目が一致していることである。そして下の名前を見ると「たんぽぽ」「さつき」「よもぎ」「すみれ」「ゆり」「ゆず」「さくら」、そして「柊」は植物の名前であり、「つばさ」「はつみ」「奈緒美」「久美」については特に何というものはなさそうである。

上述のうち「田口たんぽぽ」から「結城ゆず」はエンドクレジットにCVと一緒に表記されているキャラクター(Aとする)、「角田つばさ」「檜山柊」「桜田さくら」は1話での校内ランキング表で一桁順位にいるキャラクターのうち前述のキャラを除いた3人(Bとする)、「七瀬奈緒美」「八戸はつみ」「宮藤久美」(Cとする)は5話でキルカが新入部員として入った時点での校内ランキング表から名前が読み取れたキャラクターたちである。

(A)はCVが記載されているので、日ごろからダメ絶対音感を鍛えている諸兄においてはある程度は判別可能であろう。本編を見ればおわかりのように、彼女らはメインキャラクターたちにあこがれる一年生たちである。そうすると、名前が植物の名前からとられていて、かつひらがなというのが一年生に共通する点と考えられる。つまり(B)のうちの「桜田さくら」も一年生であることが推定されうる。(C)はキルカたちが一年生ということを考えるとキルカの一年あるいは二年先輩と考えられる。(キルカはこの時点で彼女らより下の順位にいるので、彼女らがキルカと同学年であるなら、今の時点での卓球部において少なくともランキング表に名前くらいは出るはず) 名前が共に漢字になっている「七瀬奈緒美」と「宮藤久美」の二人は同学年であろうということ、またランキングからも考えると、二人はキルカの二年先輩、「八戸はつみ」が一年先輩という推測が妥当か。(B)の「角田つばさ」と「檜山柊」はどちらかが(今の)二年生、もう片方が三年生と思われるが、ここに挙げただけではどちらがどうとはっきりとは言えない。

このモブの名付けに対する考察が何を意味するかは次章に譲りたい。

 

(※)「角田つばさ」について、1話エンドクレジットには「角田つばき」という名前が見えるが、上述の、1年生は植物からとったひらがなの名前であるという考察と合わせて考えると、「角田つばさ」は作画段階でのミスであり、「角田つばき」が正しく、彼女は1年生というのがおそらく正しいと思われる。

 

第三章 記号と名付けによって表出されるメインキャラとモブキャラの差異

以上見てきたことから何が言えるだろうか。まず一つは、メインキャラに対する豊富な記号の付与、あるいは名前への意味づけにより、視聴者にとってメインキャラクターの名前と性格、プレイスタイル、そして顔を一致させることが非常に容易になる、ということである。キャラクターの名前を覚えること、そしてその名前と顔や性格を一致させるということは、人によって得意不得意はあるだろうが、多くアニメを見ている視聴者でも意外と難しい。逆に多くアニメを見ているがゆえに、それらのアニメの登場キャラクターの数は膨大になり、かなり意識しなければメインキャラでも名前がスッと出てこないということはまれなことではない。

まだ5話時点ではあるが、私でなくても視聴者はおそらくメイン6人の顔と名前、そして性格やプレースタイルを相当一致させて覚えられているのではないだろうか。

そしてもう一つには、メインキャラとモブキャラの明確な差異である。

第一章、そして第二章第一節でメインキャラたちについてみたとき、その記号や名付けは個人に属していた。つまり、それらは彼らの個性を際立たせるために働いているのである。それに対し、第二章第二節でモブキャラの名前について考察を加えたとき、私は個人について触れることはなく、「学年」というくくりでしか見ていなかったことを感じていただけただろうか。それは私の恣意によるものではない。つまり、モブキャラたちの名前には彼女らの個性とつながるものはなく、ただ学年への帰属が察せられるというのみなのだ。その上、モブキャラたちには全員に共通した特徴として、上述のように「名字の読みの一文字目と下の名前の一文字目が一致する」というものがある。この無味乾燥で機械的な特徴は、個性とは明らかにかけ離れている。彼女らは名付けられた瞬間からモブであることを宿命づけられ、決してメインキャラに這い上がることはできない。髪型や小道具などではなく、あろうことか最も属人的である「名前」にそれが刻みつけられてしまっているのだ。

名前に関して言えば、本編中、モブキャラたちは盛んにメインキャラの名前を呼び、憧れ、もてはやす。その一方でメインキャラたちがモブキャラの名前を呼ぶシーンはどうか。もちろんないわけではないが、比べてみれば極端に少ないのがわかるだろう。ここにも明確な差異が見てとれる。強い言い方をすれば、もはやこれは壁、溝、断絶とまで言ってもいい。他の部活アニメ(作品)(≠部活モノ)であれば、いわゆる控えの選手にもスポットライトが当たったり、控え選手と主力選手の間の交流、わだかまりなんかが描かれたりすることもあるわけだが(ex:『ハイキュー!!』、『響け!ユーフォニアム』など)、『灼熱の卓球娘』においてそうしたエピソードはまずありえないことになる。モブキャラはあくまでモブキャラであり、メインキャラをもてはやし、メインキャラの強さを際立たせ、試合の時には実況を担当し、メインキャラによる解説の聞き手となるのがその役割なのだ。一方メインキャラは個性を爆発させ、メインキャラたちの中での交流を主としつつ成長し、戦う。

このアニメでは、控え選手なりの矜持のような甘っちょろいものは一切排除されているのだ。そもそも団体戦メンバーも確実な予想ができるし、団体戦メンバーを選ぶこと、選ばれること、選ばれないことによる悩みや苦しみなどはこのアニメに関してはお呼びでない要素なわけだ。これらのことを考えると、校内ランキングなる制度(=実力主義)が定着していることにも必然性が生じる。 

 

○おわりに

以上書いてきたが、一つはっきりさせておきたいことは、私はこのアニメのこうした特徴を苦々しく思うものではまったくないということだ。大げさな言い方をすれば、私はこのアニメに魂を揺さぶられているほどにこのアニメを楽しみ、評価し、感動している。私は純粋に強さを求め、勝負を楽しみ、感情を昂らせる彼女らにあこがれ、魂を揺さぶられ、そしてやはり、自分が決して歩むことのできなかった姿にただただあこがれているのだ。そんな中では、モブをモブとして閉じ込めるということは言い方は悪いのかもしれないが、望むところなのである。

勝負の世界は厳しい。それは中学校の部活とて同じ、いや中学校の部活だからこそ厳しい勝負の世界があるのかもしれない。弱者に希望を抱かせる余地すら、そして絶望を抱かせる余地すらも与えない、そうしたこのアニメのある種一貫した姿勢を、私は評価したいのだ。

 

 

灼熱の卓球娘』については、なんといってもOPの出来が抜群すぎるほどに抜群、出色すぎるほどに出色であり、このアニメの魅力の大きな大きな一つだと思っているが、今回に関してはそこへの言及は我慢させていただく。もちろんEDも名曲だ。

ところで、6話からはいよいよ他校との試合が始まる。他校の選手に付与された記号、そして名付けにも注目したい。

 

 

今回、記事がなぜか論文風だったのは自分がやるべきことをやっていないことへのせめてもの贖罪のつもりである。もちろん、これにはなんの意味もない。

 

 

(※11/07追記↓)

 OPから見られるこよりに充てられた記号「丸」だが、髪型というよりかは卓球のピンポン球と考えるほうがいいだろう。恥ずかしながら5話を見返して、最後のこよりが月をピンポン球のようだと指さすシーンを見て初めてそれに思い至った。まだまだ精進が足りない。

 

『君の名は。』を見まして、帰り道で一つだけ考えが至った

 

表題の通り。

 

今帰ってきてすぐにこれを書いていますが、なにぶん情報をシャットアウトしてきたもので、この程度の指摘はすでになされているとは思いながらも書いておきます。

 

考えが至ったこと、とはつまり、「みつは」と「たき」というこの物語の二人の主人公について、名字を呼ばれるシーンがほぼない、ということです。

少なくとも「たき」には一度もありませんでした。「みつは」も、「宮水」という呼び方は家や神社を表すときには出てきましたが、「みつは」個人を呼称するのに「宮水」という呼び方をされることはほとんどなかったように思います。授業で先生が呼んでいたのはありましたが。(クラスメートが「みつは」をいじるのに名字で呼んでいたかもしれないが一度見ただけなので記憶があいまい)

 

「たき」には「立花」という名字があり、それは家の表札、バイトの名札でわりあいしっかりと画面の中に出てきています。しかし彼が「立花」と呼ばれることは一度もなく、常に「たき」呼びです。

また逆に「たき」の名前は「瀧」であるのですが、「瀧」という名前を表す文字列が画面に出てくる場面はかなり少なかったように感じました。また、「立花瀧」と、名字と名前が一緒に出てくる場面はあったかどうか… はっきりとは言えませんがなかったように思います。

 

この作品においては、名前は「声に出して相手を呼称するもの」、名字は「文字として存在し視覚で識別するもの」という区別がなされていたと感じます。名前は映像の中の登場人物たちのためのもの、名字はその物語の外にいる観客たちのためのもの、と言ってもいいかもしれません。

最後のシーン、「みつは」が東京にいることを明示するシーンでは、「みつは」の家の表札「宮水」が映し出されることでそれが観客に明示されていました。

 

この話の主題であることろの、お互いがお互いの名前を覚えているといったとき、そこに名字の存在はありませんでした。

ふたりは相手のことを「みつは」「たきくん」としか呼びません。例えば「みやみず……みつは!」とか「たちばな……たき!」のようなフルネームで覚えておこうとは一度もなされません。クライマックスのお互いの感情が高ぶるシーンで、主人公とヒロインがお互いをフルネームで何度も呼び合うというシーンはなんとなくよくあるように思います(そうでもなかったらごめんなさい)が、この映画ではそれがない。

 

つまるところ、個人をその個人として記憶しておく、見つける、そして呼びかけるときに、そこに必要なのは名前であり、名字というものは、特に個人を個人として呼びかけるときに必要ではない、ということなのだと思います。

君の名は。」といったときの「名」に名字は含まれていない、のです。

 

もうすこしまとめられたら良かったのですが、とりあえずはここまでです。

 

公開3週間も経って初めて見て、まだ一回目なものですから、もしもうこの指摘はさんざんなされているとか、お前の言ってることはそもそも記憶違いでトンチンカンだぞということがあれば静かにスルーしてあげてください。

 

 

 

その他これだけは、という良かったところを二つ挙げさせていただくと、「たき」のバイト先の先輩(立花瀧なので記憶が薄れて名前が思い出せない)のお姉さんが喫煙者であることと、ラーメン屋のおっちゃんが「あの糸守は良かった」と言うところです。

 

 

あとはタイムパラドックス的な観点についてもう少し考えたいのですが、その辺の考察はさすがにたくさんありそうですね。

 

 

 

~~~以下、投稿1時間後の追記~~~

「立花」という名字は呼ばれることがない。それにしては「立花」は、「たき」のパートが始まると、表札、そしてバイト中かなり長い間映っており、画面の中でそれなりに存在していた。なぜだろうか。バイト中の名札、いらなくない?と思わなくもない。

それでもちょっとしつこいくらいに(この辺は個人差があると思います)画面に映していたのは、「たき」という呼称が名字ではなく名前であることをしっかりと観客にわかってもらいたかったからだと考える。「たき」だけ聞いたら普通の人はそれが名字だと思うだろう。そうではなく名前だとわかってもらうために、表札という明らかに名字をはめこむところに名字である「立花」をはめ込んだ。少し格式高い飲食店のバイトの名札という明らかに名前でなく名字をはめこむところに「立花」をはめ込んだ。「たき」が「立花」からくるあだ名とは考えにくそうである。そして、学校の友達はともかく、バイト先の同僚、先輩、そして厨房の人まで彼を「たき(くん)」と呼ぶ。

厨房スタッフがホールスタッフを名前呼びするのには少々違和感もあったが、それは親切すぎるほどのこの作品の意見表明であったのだろう。つまり、「この作品は『名字』ではなく『名前』を呼ぶことに意味を込めているのですよ」というメッセージを円滑に受け取ってもらうために必要なことだったと考えられる。

 

じゃあなんでそもそも名字と紛らわしい「瀧」なんて名前を"この"作品の主人公につけたのか?という疑問がある。「タカシ」とか「ヒロユキ」とかだったらそもそも初めから名字と間違いようがないのでは?

ここについては今のところよくわからない。名字と紛らわしいからこそ名前としての存在に価値がある、みたいなわかった風で全然わからない理由しか思いつかない。物語における名付けには必ずそこに意味があるはず、という考え方に立つならば、その名前にした意味があって、それを考えることもできるだろう。

しかし、物語の登場人物の名付けにはその(物語の中の)名付け親が考えた以上の意味はなくて、物語を創造する立場の者が名付けに意味を与える必要はない、との考え方をとるならば、本当に(物語上の)意味はなく、彼の両親だか祖父母だかまた別の人だかが「瀧」と名付けてしまったから、観客がそれを名字と間違えないように演出の方で表札とか名札を画面に映すようにした、と考えることもできる。

 

ちょっと妄想が過ぎたかもしれない。しかし、「名前」が大きなテーマになっているこの作品で「名付け」を無視することはできないだろう。この点は是非監督本人に訊いてみたいところだ。