「アニメ『けものフレンズ』はなぜ考察班を生み出したのか。この謎を解明するため、我々取材班はジャパリパークへ飛んだ———」
2017年冬アニメもおおよそが3話までの放映を終えたが、その中のイエローサーバル、……もといダークホースと言えばそう、『けものフレンズ』だ。
動物をモチーフにしたかわいい「フレンズ」たちの大冒険が繰り広げられるこのアニメは、一見すると子供向けのようにも思える。しかしこのアニメにはところどころに不穏な空気が流れている。打ち捨てられて朽ちたようにしか見えないバス、索条はあるが搬器の見当たらないロープウェー、かばんちゃん以外のフレンズたちと一切の言葉を交わさない「ラッキービースト」、そしてかわいいフレンズたちの大冒険が繰り広げられる本編には似つかわしくない、ただ廃テーマパークの写真が流れるだけのED映像……
このアンバランスさをはらんだアニメは瞬く間に一部の視聴者の心をつかんだ。またそうした視聴者たちの中から #けものフレンズ考察班 という者たちが現れ、あるものはTwitter上のつぶやきというかたちで、またあるものはブログの記事というかたちで、各人がアニメけものフレンズに対して「考察」を繰り広げている。その「考察」は、アニメの世界観に関するものであったり、このアニメの裏に隠された本当のメッセージに関するものであったりと様々である。かくいう私も、このアニメの1話を見たときからこのアニメについていろいろと考えを巡らせずにはいられなかったりしている。
アニメ『けものフレンズ』についての考察は、特にブログ記事においてまとまった文章として読むことができる。まだ3話放映時の段階でありながら、先行研究はすでにそのあたりのアニメよりも充実しているといえるだろう。
そこで少し視点を変えてみよう。 なぜアニメ『けものフレンズ』はこうした考察班を生み出したのか。言い換えれば、なぜ人はアニメ『けものフレンズ』を考察するのか。
視点を変えてみることは研究においても大切なことである。もちろんアニメを視聴するときにも。
「なぜアニメ『けものフレンズ』は考察されるのか」という観点に立ち、その理由を少しばかり考えてみたい。この文章は「けものフレンズ考察」であり、同時に「けものフレンズ考察考察」である。
ちなみに「けものフレンズ考察班」については以下のわさすら氏(id:wasasula)の記事が参考になる。
・ED映像という「メッセージの場」と考察の土台
#けものフレンズ考察班 というタグがTL上に踊ったのは、おそらくED映像の観覧車をチェルノブイリの観覧車ではないか?と指摘した @nanarokushiki 氏のツイートがその端緒であったように思う。
けものフレンズのEDに出てくる観覧車 これチェルノブイリの観覧車じゃないっすかね…… #けものフレンズ考察班 pic.twitter.com/XcdlZ6wcfx
— なろ◆しろけ4 (@nanarokushiki) 2017年1月18日
(※のちに本人によってチェルノブイリではなくペルボウラリスクの廃棄された観覧車と訂正。またタグ自体はそのツイート以前から存在)
すみません訂正します けものフレンズEDの観覧車はチェルノブイリではなくペルボウラリスクにある破棄された観覧車でした この画像のグレースケールの様子 似すぎてるって言い訳させて…… しかしどちらにせよEDの画像はすべて朽ちたものや破棄されたものの様です #けものフレンズ考察班 pic.twitter.com/Elcntx7GxI
— なろ◆しろけ4 (@nanarokushiki) 2017年1月21日
このツイートをきっかけにしてけものフレンズ考察は本格的に始まったといっていいだろう。そしてまた、このツイートがきっかけになったことは実に納得のいくことでもあった。
というのは、ここで指摘されているのは他でもない「ED映像」だからである。ED映像というのは、本編よりも、そしてOP映像よりもスタッフによる自由度が高いと言えるだろう。アニメによっては、アニメ本編とは関連性の薄いインパクト重視のEDが採用されたりする。つまりは遊びの許される場なのである。
そのED映像にこのアニメはあろうことか「実写の」「廃棄された観覧車」をチョイスした。その後も映像にはキャラクターは一切映らず(よく見るとキャラクターの形をしたようにも見える金型が映っている)、延々と人気のない遊園地のようなものが映される。これはなにを意味するのか。
自由にやれるED映像で、このアニメの(表向きの)魅力と言えるフレンズたちを映さずに「あえて」この映像をチョイスした。いくらインパクト重視でも、文脈と関係のない、ましてやキャラクターすら映らない映像を流すにはインパクトなどとは別の理由を考える必要がある。つまり、これはどう考えても制作側のメッセージと受け取るしかない。「このアニメはこういうアニメですよ」と。
廃棄されたバスなど世界観の裏設定をにおわせるものは本編中にもあったわけだが、ED映像がその仮説を確信に変えたと言っていい。これを受け、考察班は背中を押されるかたちで各々考察を繰り広げはじめたと考えられる。
また、このツイートによって暗示されたことは、「アニメのジャパリパークは実は廃棄されたテーマパークである」ということである。これはアニメ放送前にネタにされていた、「けものフレンズはアニメ放送前に原作のソシャゲが終わっている」ということと奇妙なつながりを見せる。すなわち「アニメの世界はソシャゲが終わった後の荒廃した世界ではないか?」 という仮説だ。この「荒廃した世界観」はある種『けものフレンズ』考察の土台となり、考察班の初めの共通理解となると同時に、そこからさまざまな考察をする上での足がかりともなったのだ。
・考察という行動と「人間であること」
けものフレンズ考察ブログの中でも大きな反響を呼んだものの一つは骨しゃぶり氏 (id:honeshabri) によるこの記事だろう。
アニメ『けものフレンズ』は動物を知ることで人類とは何かを探求していくアニメだという視点。大変興味深く、また大いに同意できる。(ちなみに私もこの記事が出る前の1話放映時点で似たような指摘をした(オタク特有の対抗意識))
けものフレンズ、野生の極限みたいな状況で人間という動物は「動物」としていかなる能力を発揮しうるのか、というテーマなんだろうだと思うのだけど、人間の大きな特徴であるところの「二足歩行」をすべての動物が習得していて完全に人間が形無しになっているんですよね
— ぬんさく (@nun_tya_ku) 2017年1月12日
見返してみたらあんまり似たようなことではない気もする。お詫び申し上げる。
さて、それはそれとして。この記事で指摘されているように、かばんちゃんは1話で持久力、投擲能力をもって人間のもつ他の動物に対する優位性を示した。さらに2話では大きな河に即席の橋を架ける。まさに人間のもつ「知恵」を示した格好だ。3話では草をむしって地面に大きな絵を描く。それはまさにナスカの地上絵。このアニメは着実に人間の「人間」たる部分を描き、1話で示された「空を飛べない」「泳げない」「速く走ることもできない」という他の動物に対する劣位性を補ってあまりある人間の優位性が他のフレンズたちに、そして視聴者にも示される。実際、かばんちゃんの発想力や機転はいち人類から見ても素晴らしいものがある。人間だからといってなかなか簡単に思いつけるものではない。
『けものフレンズ』は人類を描くアニメである。そしてアニメの中で人類の持つ優位性が展開されていくのを見たとき、視聴者は何を思うだろうか。こう思うはずだ。「私も人類である」「ジャパリパークではなく21世紀の社会に生きる自分が発揮できる、人類のもつ優位性とは何だろうか」と。いわば、かばんちゃんに「触発」されるのだ。
そこで「考察」という行動を考えてみると、それは大雑把に言うなら「作品を読み解き」「それを言語化する」ことである。いずれも人間にしかできないことだ。特に「言語」そして「文字」というものは人類の発明したものの中でも極めて重要である。文字を持つことで「記録」そして「伝達」が可能になり、人類の文化は飛躍的に進歩したといっていい。アニメ本編でもいずれ「文字」についての言及がなされるのではないかとにらんでいる。
さらに言うならば、インターネットで自らの考察を「共有」することもまた当然ながら人間ならではである。かばんちゃんの活躍を見て自らの中の「人間」というアイデンティティを呼び起こされた視聴者は、自らが人間であることを規定するため「人間的」な行動を無意識のうちに欲していたと考えても不思議ではない。21世紀の社会には紙飛行機で注意を逸らすべきセルリアンはいなかったが、文字を紡ぐキーボードと不特定多数とつながるインターネットが存在していた。人々の中の「人間性」が呼び起こされた結果がこの「けものフレンズ考察」なのだ。
・無償の愛が愛を呼ぶ
「けものはいてものけものはいない ほんとの愛はここにある」
アニメ『けものフレンズ』OPテーマの歌詞の一節である。私の大好きな歌詞でもある。
このアニメには愛があふれている。それも無償の愛だ。1話でかばんちゃんを助けたサーバルとカバ、2話のコツメカワウソとジャガー、3話のトキとアルパカ。みな快く頼み事を受け入れ、また見返りなどを要求することもない。だれも除け者になどされない。楽しければみんなでたのしー!と笑うし、うれしいことがあればみんなで喜ぶ。そう、このアニメは優しさにつつまれている。
この無償の愛に絆された視聴者は、この愛を誰かにわけてあげたいと思うだろう。しかし21世紀の社会にはジャパリパークを抜けて図書館に行くかばんちゃんの助けになる機会は存在しない。それではその愛を誰にぶつければいいのか。……つまりは、愛を『けものフレンズ』という作品そのものにぶつけた結果が「けものフレンズ考察」なのだ。
アニメを見て、あるいは何度も見返して、そして考察を深めるという行為。それは作品への愛の形だ。見るのも、考えるのも、そしてそれを文章にするのも時間を消費して行う行為である。そしてその考察は愛ゆえに作品の魅力に迫ろうとし、そしてそれを他者に伝えようとする。愛に絆された視聴者が愛に包まれ、そして愛を拡散する。「けものフレンズ考察」は、ある面ではアニメから始まった愛の連鎖なのである。
・意外性は話題性
なんだかスピリチュアルな話をしてしまった。最後にもう一つ。単純な話ではあるが、結局は「けものフレンズ考察班」の一行矛盾感がウケたということだともいえる。
「けものフレンズ」というその存在を知らずともなんとなく脱力してしまうような名称と「考察班」という妙にカッチリした言葉が合体すると、途端にそれは異様な魅力を放つ言葉になる。アニメ『けものフレンズ』はサブタイトルがすべてひらがな(しかも「さばんなちほう」ではなく「さばんなちほー」(!)であり、ますます脱力感を誘う)だったり、本編の方も一見するととても頭を使って見るタイプのアニメとは思えなかったりと、「考察」とは程遠そうなのである。そんなアニメに対し謎のタグをつけてああでもないこうでもないと考察を繰り広げる姿は意外性をもって人々の目に映り、それは注目を集める。注目を集めれば「なんだよこれwww」のような中身のない反応も含め、自然と話題にのぼる。そうして興味を持った人が新たにアニメを見始め、考察に参加する……
つまりは、一見したところでの考察との無縁さが功を奏し、「考察されているだけで面白い」という状況をつくりだした。
このことが面白いことが大好きな人たちにひっかかり、結果『けものフレンズ』は異様なまでに「考察」されることとなったのだ。
以上、「けものフレンズ考察」について「考察」したが、もちろん、アニメ『けものフレンズ』を考察するべきとも、考察するべきでないとも言うものではない。
このアニメは考察しがいのあるアニメであるし、考察意欲をかきたてられるアニメであるとも思う。しかし忘れてはいけないことは、アニメは考察されるために存在しているのではないということである。
アニメ『けものフレンズ』の試聴体験を通して「たのしー!」になること、大切なことはそこにある。
にゃるら氏(id:nyalra)による「たのしー!」な記事↓
やっぱりアニメって「たのしー!」