闇に、吸い込まれる。それは、虫が光に吸い寄せられるように。
長かった梅雨は去り、セミが夏を叫ぶ八月上旬。とある田舎の渓谷をたっぷり3時間ほど歩き回ったわたしは、家に帰るための最終列車を待つため、小さな駅舎へと戻ってきた。
しかし列車が来るまではまだ1時間ほどある。駅前にはコンビニもないが、お店が一つあった。土産物屋と食堂を兼ねていると屋根には書かれてあるが、中に客はおらず、店を切り盛りしていると思われるおばさん二人が談笑しているところだった。ふと周りを見てみると、自分と同じくらいの年齢のおひとり様がいた。わたしと同じように、列車までの時間をどうしようかひと思案といったところだった。
彼はその店の中をちらりと見やったが、店には入らずそのまま自販機で何やら飲み物を買い、駅前のベンチに座ってしまった。大方地元オーラに太刀打ちすることを選ばず、旅先での平和で大切なひとりの時間を守ったのだろう。よくわかる。
さてわたしはと言うと、さっき駅に戻る途中の道で見つけたラーメン屋に入ろうとしたら、「やってないんですー」と網戸越しに言われてしまったのが効いたか、彼と同じように中をちらりと見やるだけでその場を離れてしまった。旅先でやってるかやってないか微妙なお店に入るのは、想像以上に精神力を使うことなのだ。ましてやフラれてしまえばそのダメージは倍増。ここでむやみに攻めるのはリスクが大きかった。
さりとて1時間も何もない駅前にいるのは味気ない。それに、なんとなくお店の前にもあまりいたくなかった。手グセ、いや足グセでわたしは先ほどとは別方向へ散歩に向かった。
少し行くと、「白鳥」という名のレストランが"あった"。それは外観だけはかつての様子をとどめていたが、ガラスの外された窓からは、その名前とは逆の真っ黒な闇しか見えなかった。
また少し行くと、もう一つ民家ではなさそうな建物があった。そちらはわかりやすく廃墟といった趣で、緑が少しずつそれを取り込んでいるところだった。元は宿泊施設かなにかだったのだろうか。
もう少し行くと、パン屋の看板があった。もう18時を過ぎているし、すでに閉まっているだろう。わたしは期待せず角を曲がった。そうするとたしかにパン屋が存在した。それは前二つの廃墟とは違い、現役のパン屋だった。しかし入口には、「今日の営業は終了しました」の紙が控えめに、しかし間違いなくよそ者を入れないようにその存在を主張していた。
別に腹が減ってるわけでもない。やってるかやってないかわからないよりは、そうして主張してくれる方がよっぽどありがたい。わたしはそのまま道を進んだ。するとすぐに視界が開け、そこには夏の夕暮れがあった。いや、夏の夕暮れ"だけ"があった。
夏を叫んだセミたちの中で、今ここではひぐらしが主役だ。さっきまで暑く腕を焼いた陽光は態度を軟化させ、生ぬるい風とともにわたしに取り入ろうとする。ぼんやりと桃色に染まった雲はかわいく微笑み、少し霞んだ空の中で良い雰囲気を作り上げる。今ここに人間は自分しかいない。彼らの、彼女らの誘いに乗ってしまおうか。魅力的なそのお誘いに。
あたりはわたしに悟られないように少しずつ、だが確実に黒を増してゆく。ふとわたしはスマホを見た。最終列車まであと20分。スマホの充電は20%を切っている。このままここで誰にも気付かれずに立ちすくめば。帰る手立てはなくなり、スマホの充電が切れれば、わたしは彼女らとひとつになれるだろうか。そうか、神隠しなんてのは案外こんなことなのかもしれないな。夏の夕暮れのお誘いは、どんな未来よりも魅力的に思えた。このまま闇の中へ消えてしまえば。緑がわたしを取り込んでしまえば。わたしが夏とひとつになれば。そうか、あの人が会いたかったと歌っていた夏の魔物は、こんなところで待っていたのか。
「ワンワンワンッ!」
吠えたのは犬だった。
「ごめんなさいね、知らない人がいてびっくりしちゃったみたいで」
その犬を連れたおばさんは、よそ者に向かって優しく挨拶をしてくれる。わたしは精いっぱいの愛想で返し、来た道に歩を向ける。
「その子、なんてお名前なんですか?」
その犬の名前は、わたしと同じだった。
駅に着いたときには、すっかりあたりは暗くなっていた。件の駅前のお店には灯がともり、店内には地元の人とおぼしき青年4人組が楽しそうに食事をしていた。わたしは1時間前に彼がしたように、駅前の自販機で飲み物を買い、喉の渇きを潤した。
無人駅とはいえ、ホーム上は必要最低限の光で照らされている。しかしそのホームから見る線路の先は、闇に包まれていた。ホームの端に立ち、線路の先に待つ闇を羨ましそうに眺めているわたしに、踏切の音が邪魔をした。
チョウチンアンコウのように二つのヘッドライトを眩しく光らせた最終列車にわたしは飲み込まれた。どうやら、この夏最大のチャンスを逃してしまったようだ。