なぜ「ヒラリ飛んでった テキトーに折った紙ヒコーキが なんか羨まし」いのか?

去る4月5日にZepp DiverCity Tokyoで行われた相坂優歌さんの1stライブに行ってきた。

 

相坂優歌、1stライブレポート。「聖少女領域」「エレメンタリオで会いましょう!」など幅広い楽曲でファンを魅了 | 記事詳細|Anime Recorder|アニメレコーダー

ライブの中身についてはこちらの記事↑を参照などしていただければと思う。

 

さて、自分としてもライブ全体の感想としても語りたいことはいろいろとあるわけだが、なんでも書こうとすると何も書けなくなるし何も伝わらないというのはこの世の常であるので、今回はただ一つ、歌詞のワンフレーズについて考えたことを書いていきたいと思う。

 

そのワンフレーズとは、タイトルにもあるように

ヒラリ飛んでった テキトーに折った紙ヒコーキが

なんか羨ましくて 

 である。

 

 

これは、相坂くんにとって自身2枚目のシングルであり、アニメ『アクティヴレイド -機動強襲室第八係- 2nd』のOPでもある『セルリアンスカッシュ』という曲、その2番のAメロである。

私はセルリアンスカッシュについては好きではあったのだがFULL音源は持っておらず、先だって発売されたアルバムを聴いて初めて(正確にはアクティヴレイドのイベントで生歌唱を聴いているので初めてではないが)FULLを聴いた。そこで上記のフレーズを聴き、ストンと落ちたような感覚におちいった。すなわち一聴して大変にお気に入りのフレーズとなったのである。同時になぜこれまでリリースから約一年半もこれを聞き逃していたのかと情けなくもなった。

 

ともかく、私はこのフレーズが好きであり、そしてこのフレーズが示すシチュエーションに強い共感を覚えるのである。しかし、それはなぜなのだろうか。そんなことを考える記事にしていきたい。そうしたことを考えることで、自分の感情をひとつ紐解くことにつながると思うからである。そしてそれは、非常に個人的なことでありながら、読んだ人にも多少の思考を喚起するものではなかろうかと思うのである。要は考えたことを文章にしたいというだけなのであるが。

 

 

さて、考えていく前に、一つだけもしかしたら解釈のズレがあるかもしれないところについて話しておきたい。それは、「紙ヒコーキを折ったのは誰なのか」ということである。結論から言えば、私は間違いなく「自分」であると思う。というより、これを聴いてパッとその瞬間に頭に浮かんだ光景に「自分」以外はいなかった。

私が聴いた瞬間に頭に浮かんだ光景はこうである。

休日のお昼、何とはなしに川の土手、その草地あるいは階段に座った自分は、なんとなく持っていた、あるいは近くに落ちていたさして意味もない紙を意味もなく適当に紙ヒコーキにして飛ばした。その紙ヒコーキがヒラリと飛んでいくのを見て、なんとなく羨ましいなあという感情を抱いた。

というものである。わざわざ書きおこすほどのこともないかもしれない。

つまり、私の解釈では「他人(誰か)が折った紙ヒコーキ」ではないだろうということである。もちろんそこに正解はない。ともかく以後では「自分」が折ったものとして話を進めていく。

 

さて、改めて何について考えるのか示しておこう。

なぜ「ヒラリ飛んでった テキトーに折った紙ヒコーキが なんか羨まし」いのか?

 

私はこれに共感する。であるので、なぜそう思うのか、その感情はいったいどういうことなのかを文章にしていきたいのである。

 

  1.「テキトー」に折ること 

 

では、「一生懸命」折ったのであれば羨ましいではなくてなんなのか?

そこに生まれる感情は「誇らしい」なのではないだろうか。

(自分が)「一生懸命」折った紙ヒコーキが飛べば、うれしいとともに、誇らしい。なぜならば、一生懸命に折ることで、他ならぬ自分が生み出したその紙ヒコーキは、いわば自分の分身とでも呼べるからである。それは例えば、手塩にかけて育てた教え子が結果を残したような、そういった類いの感情なのではないかと思う。

 

対して、「テキトー」ではどうか。

折ったのは自分でも、自分が何かを込めたわけでなければ、その紙ヒコーキに「自分」を見出すことはできない。よって、あくまでも他者的な見方しかできないと考えられる。その結果、次にみるように「羨ましい」という感情が湧き上がり得る。

 

  2.「羨ましい」という感情 

 では、「羨ましい」とは、いったいどういう感情なのであろうか。その答えは一言で言うことができる。すなわち、「あれになりたい」である。

インターネットで「羨ましい」の意味をたわむれに調べてみれば、次のように書かれている。

『人が恵まれていたり、物事が優れていたりするのを見て、自分もそのようになりたいと思うさま』

オタクはツイッターでときにアニメ、あるいは声優、はたまたそれとは別の何かの画像、そしてもしくはどこかの誰かのツイートなどを貼り付けて、それとともに「はやくこれになりたい」という一言をつぶやく。「これになりたい」「あれになりたい」という言葉、それは羨ましさの発現と言えるだろう。われわれオタクにとって、「羨ましい」という感情は身近であり、切っても切れないものなのだ。

 

そして、羨ましさにとって重要なのは「他者」である。自分とは違うからこそ、「羨ましい」という感情は生まれる。前述の紙ヒコーキが「テキトー」に折ったものでなければ羨ましがる対象になりえないというのは、そういうことなのである。「一生懸命」に折った紙ヒコーキには「自分」が少なからず入り込んでいるため、「羨ましい」という感情はそもそも生まれ得ない(生まれにくい)。

 

 3.「なんか」ってなんだ

「とても」でも「すごく」でも、もしくは「ちょっと」でも、あるいはただ何も頭につけない純粋な羨ましさでもなく、ここで生まれた羨ましさは「なんか」である。この「なんか」も、たった三文字だがこのフレーズ全体にとって重要であると思っている。

「なんか」ってなんなのだろうか。

「なんか」はすなわち「何か」である。「何」、つまり、特定できないという気持ちから口をついて出てくる言葉が「なんか」なのである。

では、ここで「羨ましい」ことの何について特定できない気持ちを抱えているのだろう。それこそこれだと特定することはできないのだが(だから「なんか」としか言えないしそう口をついてしまう)、私が考えるなかでは、「なぜ羨ましいのかわからない」であるとか、あるいは「これが本当に羨ましいという言葉で表現してよい感情なのか」という気持ちがあるのではないかと思う。

上で「羨ましい」という感情について、「これになりたい」という言葉を挙げたが、自分は本当に「ヒラリ飛んでったテキトーに折った紙ヒコーキ」になりたいのか?と問われたとして、「なりたい!」と答えるのだろうか?それになりたいわけではなくても、それでも浮かんでくる感情は「羨ましい」であり、その間にある危うく頼りない隙間には「なんか」という橋をつなぐのが最も簡単で、なおかつ適当だと思われるのである。

逆に言えば、「なんか」という三文字がここに挟まることで、ここで抱く「羨ましさ」を確定させずにいることができるのである。そしてそのフワフワした感覚こそが、そのフワフワさゆえに、そこに存在していることを認めることができ、いわば「ストンと」落ちてくることができるのだと考えている。

 

 4.どこにではなく、何か別の飛び方でもなく、ただ「ヒラリ飛んでった」

「ヒラリ飛んでった」先はどこなのだろうか。また、どのくらいの距離「飛んでった」のだろうか。書かれていないということは重要ではないということである。ここでは「ヒラリ飛んでった」ことだけに意味があり、どこからどこまで飛んだとか、どのくらいの距離飛んだかということは問題ではない。この紙ヒコーキは、たとえば数十メートル飛んでいったから羨ましいのでも、向こう岸まで飛んでいったから羨ましいのでも、ましてやきれいなお姉さんのところへ飛んでいったから羨ましいのでもない。

そして、「フワリ」でも「ピューン」でも「スーッ」でもなく、「ヒラリ」である。「ヒラリ」という擬音語を聞いて、あるいは目にして、例えば私が思い浮かんだのは、ドラえもんの秘密道具「ヒラリマント」であった。すなわち「ヒラリ」には何かをかわすような、そんなイメージがある。「テキトーに折った紙ヒコーキ」はただ飛んでいくのではなく、遠くへ飛んでいくのでもなく、あるいは速く飛んでいくのでもなく、何かをかわすように飛んでいった。それもまた、ここで「なんか羨ましく」思ったことには大きく関係しているのだろう。

 

 5.「ヒラリ飛んでったテキトーに折った紙ヒコーキ」の何が(なんか)羨ましいのか

 さて、これまでは個別的な表現に注目してきたが、ここで全体に目を向けてみたい。

ここで、「ヒラリ飛んでったテキトーに折った紙ヒコーキ」を羨ましがるポイントはどこにあるのだろうか?私は次のようなところなのではないかと考える。

・「テキトー」に折られていることから、特に期待されていない気楽さ

・「ヒラリ」と飛んでいったその自由さ

・飛んでいける自由さの源泉にあるものが、努力して勝ち得たものでも、何かに付与されたものでもなく、「紙ヒコーキである」という自分の存在そのものであるという点

上記二つは特に説明はいらないだろう。三点目については少し書いておきたい。

「紙ヒコーキ」は、それ自体が何か頑張ったから飛べるのでも、誰かに何か工夫を施されたから飛べるのでもなく、ただ「紙ヒコーキ」であるから飛べるのである。(誰かに折られなければ飛べないのはもちろんであるが、「紙」から「紙ヒコーキ」となった瞬間から、すなわち「紙ヒコーキ」が「紙ヒコーキ」として存在した瞬間に飛ぶための機構を備えている。そうでなければそれはそもそも「紙ヒコーキ」ではない。また、誰かに飛ばしてもらわなければ飛べないのも確かであるが、それは「紙ヒコーキ」にとってはあくまで外部的なことであり、少し別のことだと私は考える)

つまり、飛ぶことができるのは「自分が自分であるから」である。「自分が自分である」だけで何かができる(ここではヒラリ飛んでいく)ということ、それを(なんか)羨ましいと思うのではないだろうか。

 

 6.まとめ

以上のことから、なぜ「ヒラリ飛んでったテキトーに折った紙ヒコーキがなんか羨まし」いのかについて考えをまとめていきたい。

まず、自分は「テキトー」に「紙ヒコーキ」を折る。そこに自分から紙ヒコーキへ込めた思いはない。しかしその「テキトーに折った紙ヒコーキ」は「ヒラリ飛んで」いく。それは確かに自分が折った紙ヒコーキなのであるが、「テキトー」に折ったものであるからそこに感じられるのは他者性である。しかしそれでもその「紙ヒコーキ」には自分が全くないのではなく、微かに、そして確かに自分が感じられてしまう。なぜならそれは他の誰が折ったものでもないからだ。つまり、(『セルリアンスカッシュ』全体で仄めかされている)「この世界で今なんとなく上手くいっていない自分」が意識されてしまうからこそ、「ヒラリ飛んでったテキトーに折った紙ヒコーキ」に対する「なんか羨まし」い感情は強くなる。そういう対照性、自分から生み出された(「自分が生み出した」ではない)ものが、今の自分にはない(おそらくは、昔は持っていたと考えているであろう)「気楽さ」や「自由さ」や「自分が自分であるだけで何かができること」を持っている(ように感じられる)から、「なんか羨まし」いと思うのだ。

 

 

 

さて、ここまで書いてきてなんだが、この歌詞を書いたのは他でもない相坂優歌さんである。これを聴き終わってから作詞を確認し、作詞に相坂優歌の名前を見たとき、自分の相坂くんに対する気持ちは少なくとも一段階深くなった。数多ある言葉の中から、「ヒラリ」「飛んでった」「テキトーに」「折った」「紙ヒコーキが」「なんか」「羨ましくて」を選んで紡いだこと、そこに限りない共感が生まれ、そしてそこから好きだという感情も生まれる。

もちろんこの一節だけではなく、曲全体であるとか、相坂くんの作詞したほかの曲、あるいは相坂くん自身についてもっといろいろと考えたうえでこのフレーズについても考えるべきなのではあるが、ここではほとんどこのフレーズだけで考えてみた。それだけでもやりごたえはあるし、やった意味もあったと思う。少なくとも、自分はこのフレーズに対する感情が深まったし、より好きになった。

 

もともと好きなものについていろいろと考えることで、さらにそれが好きになる。好きのスパイラルであり、世界平和への道だ。自分も、そしてみなさんも、自分の好きなものについていろいろと考えていき、好きを深め、さらに好きを広めていければ、世界平和も遠くない。そんな感じでこの記事を締めたいと思う。