2017年テレビアニメ話数単位で選ぶマイベストテン―第5位~第1位―

 

筆が遅い。なんとか1月中には書き上げることができたのでセーフということで。

 

nun-tya-ku.hatenablog.com

 

というわけで↑の続き、5位~1位についての記事。 

 

 

第5位:『フレームアームズ・ガール』第8話「決起集会/秋に呼ばれて…」(春)

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第5位には非常に魅力的な女子高生キャラクター源内あおとフレームアームズ・ガールたちの交流を描いた反則級の(販促だけに……)傑作アニメ、『フレームアームズ・ガール』から印象深いこの回を選んだ。

まずAパートは轟雷(改)とアーキテクトのデータに基づく仮想フレズヴェルクとの模擬戦から始まる。模擬戦を勝利で終えた轟雷に対し、FAガールたちは決起集会を開く。この決起集会、なぜかそれぞれが出し物をするという形で進んでいくのだが、それぞれの個性が光る出し物は、それぞれのキャラの深みにもつながっている。手作りのステージ、その中の「雷」と「改」の字が間違っているのがかわいい。この決起集会にはさまざまに見どころがあるが、個人的には迅雷の手裏剣投げで目を覆うスティレットとマテリア姉妹の漫才が好きだ。そして何より注目しなければならないことは、みんながそれぞれ思い思いに出し物をしており、とっちらかっている印象もあるが、全員に「轟雷を応援する」という思いが共通しているということだ。例えばマテリア姉妹は、サムい(私は大好きだが)漫才を通して、「どんな不利な状況でも、強い心があれば大丈夫」「そしてやりきったもん勝ちよ」というメッセージを伝えようとしている。みんな好きなことをやりながら、実はちゃんとした轟雷へのエールを彼女たちなりに表現しているというところが、7話分の彼女たちの関係の積み重ねを感じることができて大変すばらしいのである。また、轟雷自身もそれぞれの出し物とメッセージに対して、そのエールをなんとなくでも受け取っているのがとても良い。そして最後にはあおによる手紙。これもあおのお金に素直な性格やヘタなトランペットというギャグ要素をまといながらも、轟雷へのエールと轟雷へ思いを伝えるという根本の部分では非常に良いシーンとなっている。また何よりも、この手紙の中で轟雷との思い出が乏しいということに気付いたあおがBパートで轟雷と一緒に公園へ出かけるという構成、そのためのフックとしての役割もこの手紙にはあり、そうしたところがこの作品の巧みなところでもある。

さて、上述の通り、続いてBパートではあおが轟雷を連れて公園へ散歩へ行く。この作品の素晴らしい点の一つとして、FAガールたちとあおを中心とした「普通に見える世界」とのスケール感の対比ということが挙げられるわけだが、この第8話でもそれはバッチリとハマっている。Aパートは室内、それも手作りステージを中心に画面がつくられ、目線もFAガールたちの目線が主だった。それに対しBパートでは抜けるような秋の空や紅葉した木など、打って変わって「広い」画面づくりが印象的に用いられる。FAガールたちの世界、そして人間の世界、それらは明確に見えているものが違うけれども、それでも同じ世界にいて同じ時間を共有し、互いの「物語」を紡ぎ合っているのだというところが果てしなく美しい。

さて、Bパートでの主題は「思い出」である。より抽象的に言うならば「時間」と言ってもいい。あおは子供のころこの公園によく来たことを思い出し、「懐かしい」と言う。ここで子供たちやカップルが映るのもいい。あおだけではなく、いろんな人にとってこの場所が「懐かしい」を呼ぶ場所であることが示唆される。それからあおは轟雷の家族の感じを知ってみたいという声に応え、一緒におままごとをする。そこであおが思い出すのは、昔自分が一人でおままごとをしていたことだ。時間的な場面転換が多いのもこのBパートの特徴である。またここであおの両親の話になるのだが、ラブラブな両親を見て一人遊びを中心に育ったあおがこんな風にいい子に育っているということは、うまく言えないが良いなあと感じる。

そこにぐりこと名乗る女の子が現れ、一緒におままごとをする。このぐりこはあおが子どものころ一緒におままごとをしていた人形であり、ぐりこの導きによってあおは昔埋めたタイムカプセルのことを思い出し、掘り起こす。

「タイムカプセルって言ってね、思い出の宝物を入れて、何年も経ってから掘り起こすんだよ」

 「どうしてそんなことをするのですか?」

 「どうしてって……懐かしいって思うために、かな」

懐かしいと思うため、ということは懐かしいという感情を手間をかけてでも感じたいものだと肯定しているのであり、それはすなわち、思い出を、そして時間を積み重ねることを肯定しているということなのだ。思い出の品は、手に入れた時点から思い出の品になるのではなく、時間を経ることで思い出の品へと変わっていく。 どんぐりや父親からもらった気持ち悪いおみやげ、そしてぐりこの人形。あおの思い出として画面に映っていたものを、色あせた「思い出の宝物」としてあおが手に取ってながめている画は静かに、しかし非常に強いエモーションを引き起こす。そしてあおはそのタイムカプセルを再び同じ場所に埋めることを提案する。今日の「未来の思い出の品」も入れて。「そしたらいつか掘り出したときに、轟雷も懐かしいって思えるじゃん?」

フレームアームズ・ガール』は、轟雷をはじめとしたFAガール、いやはっきり言えば轟雷と「感情」の物語なのである。この8話では、Aパートの決起集会でFAガールたちが轟雷を思う気持ちを描き、あおは轟雷への手紙を通して思い出が足りないことに気付く。そしてBパートではその思い出作りということを通して「懐かしい」という感情を轟雷が理解していった。「懐かしい」という感情のためには時間が必要である。あおと轟雷はまだ出会って時間が経っていないということがここでポイントになる。まだ二人の間で(特に轟雷はまだ生まれてからも)時間が経っていないからこそ、「懐かしい」という感情を轟雷が理解することに大きな意味がある。そしてその「懐かしい」のために時間の経過を感じさせる装置やキャラクター、つまり公園やどんぐり、そしてあおの両親やぐりこといった存在がこの回においてとても良い働きをしていた。私は個人的に「懐かしい」という感情がとても好きで、気持ちいいとさえ感じる。私も何年後、何十年後にこのアニメを見て、「懐かしい」と思うときが来るだろうか。そのときを、私も楽しみにしているのだ。

 

 

第4位:『アクションヒロインチアフルーツ』第12話「情熱☆フルーツ」(夏)

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アニメと特撮とヒーローショー。若い女性声優たち演じる女子高生のキャラクターが一部のオッサンしかわからないようなネタを連発するという、一見すれば悪ノリでしかないようなアニメでありながら、全体として見ると驚くほどバランス感覚に優れており、一つの「オリジナル」アニメとして抜群に高い完成度を誇っていたと胸を張って言える。『アクションヒロインチアフルーツ』はそんなアニメだったが、その最終話は出色の出来だった。

自らの不幸体質がチアフルーツの公演に影を落とすことを恐れ、姿を消した御前。御前を除いた8人は、御前なしでリハーサルに臨む。御前は会場が超満員であることを放送で確認し、みんなに謝りながらこれでいいんだと納得しようとする。公演開始前の元気なメディカレッドの影ナレの裏で真剣な表情で本番を待つみんなの表情が良い。そして御前なしで公演が始まる。しかし始まった公演は御前がいるパターンのものであった。それを見て御前は困惑する。「何考えてるの?私はそこにいないのよ!」御前を信じるみんなと、それを受け入れられない御前の対比が効いている。そしてさらに美甘によるアドリブにより、御前を必要とする公演が加速する。美甘のアドリブはプラチナムと御前を重ね合わせたセリフを呼び、ここで他のメンバーと「御前が必要だ」という思いを一致させる。「いつまでも、待ってるから!」そしてこれらのセリフに背中を押された御前は部屋を抜け、みんなの待つ市民ホールへと向かう。個人的には青山勇気の「厳しい戦いの荒野で敵に敗れて途方に暮れていた私を、陽菜野に導いてくれたのはあの人だった!」のセリフが、勇気個人とセインブルーの両方にうまく重なっていて好きだ。そして御前が出て行って、キャリーバッグだけが残された無音の部屋のカットがすごく良い。

ところで、美甘の突然のアドリブによる御前とプラチナムを同一視した展開は、満員の観客をおいてけぼりにしているのではないかという見方がある。言いたいことはわかる。本音を言えば11話まで見てきて今さらそんなことにツッコむのはあまりに野暮でしょうもないことだとも思うが、この点に多少の無理があることは認めなければならない。しかしその無理を認めてでも、この展開をするだけの十分な理由が彼女らにはあったと考えるべきだろう。チアフルーツは「陽菜野を元気にするため」に活動していた。陽菜野市文化会館をいっぱいにするということはその象徴的目標でもあった。しかし彼女らにとって、最も元気にしたい相手はずっと一緒にいた城ヶ根御前個人であったのだ。というよりも、御前なしで陽菜野を元気にしたとは言えないだろう。大勢の観客に「内輪ネタ」を見せることが不誠実というのであれば、大勢の観客に対して、誰よりも陽菜野を元気にしたいという思いを強く持っていた御前のいない「空虚な成功」を見せてしまうことの方が何倍も不誠実だと、そう考えることができるのではないだろうか。

さて、自転車にまたがり文化会館に向かった御前は、不幸体質を発揮してしまい崖から落ち、再びくじけそうになる。そこで御前が手に取ったのはみんなからもらった御守りであり、その中にはみんなからのメッセージが書かれた手紙が入ってあった。御前はその手紙を目にし、くじけそうな心と訣別し、ここからはただひたすらに前を向いて走る。最初、部屋にいた御前を押したのは確かに御前に向けてではあるが、一応は演劇上のセリフであった。もちろんこの重ね合わせ自体も非常に良いのだが、次にこの場面で御前の背中を押したのは、御前個人に向けてのメッセージである。この二段階にわたる御前へのメッセージは、アニメと同じように「虚構」を扱いながらも、アニメとは違い現実の人間が役を演じるという「特撮」や「ヒーローショー」の持つ重層性を考えるに当たって示唆的だ。ここでのみんなからの直筆の一言が、それぞれ個性が出ていて良いのは言うまでもないが、個人的には果音の字が綺麗でないのがすごくそれっぽくて好きである。そして「ごぜんさま~♡」とだけ書いて自分の似顔絵を載せるはつりも。

「あと10分」という御前からのメッセージをもとに、御前がくるまでなんとかつなぐ。ここは花火の回でのアドリブつなぎを彷彿とさせるが、あのときステージをつないだのは他ならぬ御前だった。こうした伏線の回収も美しい。一方御前は自転車を捨て、自らの足で走る。「私は強くなる!みんなと一緒に、戦う!」水たまりに転んでも、御前はもう歩みを止めることはない。「やっぱり私はもってない……なんて、言わせるか!」ずっと自分を責めていた御前が、初めて自らの不幸体質を意志の力で克服したこのセリフは、今作屈指の名場面だ。ようやく会場についた御前はステージへ。ここでもプラチナムと御前を重ね合わせたみんなのセリフが感動的だ。そしてプラチナムはブラックの一撃により倒れてしまうが、同時に呪いは解け、ブラックとパープルはヒナネクターとしての姿に戻る。陰と陽という言葉が出てくるが、陰とは不幸体質の御前のこと、そして陽とは文字通り陽菜野のことだととることはできないだろうか。すなわち、陽菜野の地に御前がいることの肯定であり、陽菜野のために陽菜野を離れたさっきまでの御前の否定、克服であるのだ。また、やはり御前が路子に対し「呪いはあなたに切り裂いてほしかった」と言うのはずるい。このあたりは路子もプラチナム呼びではなく御前と呼んでいるなど、全員かなり感極まってしまっているのが伝わってくる。そして暗黒移動要塞との最終決戦。とはいっても決戦と言えるほどのものではないが。最後は観客の力を借りて締めるあたりはヒロインショーの文脈に則っているし、決してこのステージが観客を置いてけぼりにしていたわけではないということを示してもいる。「こんな内容なら観客はついてこないはずだ」などというのは視聴者の高慢でしかないのだ。彼女たちの物語については劇中の観客よりもアニメの視聴者の方がよく知っているかもしれないが、今そこにあるヒロインショーについては、アニメ視聴者よりも劇中の観客の方がよく見えているはずなのだから。

最後には元気も含め、9人で歌う。ここでOPが流れるのは当然誰しもが予想できる、その上で待ってましたの展開だ。情熱フルーツは苦くない。酸っぱくもない。情熱フルーツは甘いのだ。チアフルーツという作品における主人公は誰か?杏か、美甘か、それとも御前か。どれも当たりでどれも外れだ。第一話のOPイントロにかぶせたナレーションはこう言っている。「日本全国でご当地ヒロインが人気を博し、カリスマ的存在まで現れた今、政府はついにふるさとヒロイン特例法案を可決させた。この物語は、その流れに乗り遅れた地方都市を元気にしようとする少女たちの物語である」あくまで「少女たちの物語」すなわち9人全員が主人公なのだ。もちろんそんなことは12話まで見れば言われずとも分かることである。

さて、OPに乗せてその後の9人が描かれるのだが、個人的にはやはり青山姉妹が一番好きだ。裏方に徹していたが、自らがステージに立つことを考えて機動性のある車椅子を調べる元気、そして元気の振り付け案を考える勇気。元気が勇気に抱き着いているのが本当に良い。また、美甘はパソコンで1話のあの手作りカミダイオーショーを見ている。始まりはあそこだったのだ。そして定番の美甘の顔芸もしっかりと入れてくれているのには笑わされる。そしてヒナネクターはシーズン2へ。アニメは終わっても、陽菜野を元気にする彼女たちの活動はまだまだ終わらないのだ。1話では手作りのパクリだった彼女らが、最終話で他の何でもないオリジナルを見せてくれた。チアフルーツのアニメ全体としてもたくさん言いたいことはあるが、とりあえずこの12話について一言言うとすれば、完璧。何よりもこの言葉がふさわしいと、そう思う。

 

 

 第3位:『武装少女マキャヴェリズム』第7話「怪しき刃『眠目さとり』」(春)

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美少女×剣戟。それは太古の昔から揺るがない勝利の方程式である。各話、各ヒロインとも魅力的、特に最終話の締め方も良かったこのアニメだが、その中からこの第7話を2017年ベストスリーに選んだ。

この回の魅力、それはもうとにかく「美少女×全裸×刀×風呂(それも露天風呂)×バトル=∞」ということに尽きる。大事なことなのでもう一度言おう。美少女が風呂で全裸になって刀を振り回しバトルするアニメーションが最高でないなんてことがあるだろうか?いや、断じてない。

さて、この回は捏造スキャンダル写真を撮られてしまった納村が「勃起していない」元写真をさとりから取り返すため、風呂場で戦うという話だ。なぜ風呂場でそれも全裸で戦うのか?それが男のロマンだからだ着替えの中にデータがないかと脱衣所に忍び込んだところをさとりに見つかり、風呂場で全裸なら納村は戦いに集中できないだろうというさとりの策謀に納村がハマってしまったからである。こういう「このシーンがやりたい!」ということのためにとりあえず説得力や必然性をもたせようという姿勢は好感が持てる。この回は中盤ということもあり、天下五剣各キャラの立ち位置もそれぞれ良い感じに描かれている。輪とメアリは蚊帳の外で納村を想いながら疑似飲酒をし、蕨は納村と共闘、さとりは納村と敵対し、月夜はその場にはいないがすべてを見通しているラスボスの位置。しかしやはり妹分にお酌をさせて疑似飲酒にふける輪とメアリは本当に良い。未成年がノンアルコールや麦茶で酔っぱらうアニメは名作。ヒロインたちが次第にデレていくタイプのハーレムアニメにおける重要なデレシーンでもある。あと輪が鬼面を外した素顔が見られるのも良い。

ともあれ、この回の見どころは上に書いたように風呂場での戦闘シーンだ。全裸で刀を振り回す(振り回す、というよりはもっとスマートな太刀筋だが)さとりだが、謎の光はそれほど使わずに(ときどき下に構えた剣が光を放ったり湯気が不自然に濃くなったりしているが)暗めの静かな画面で戦闘を描き続けるのは気を散らすことが少なく、好感が持てる。目線を外しながら攻撃してくるさとりの「余所見切り」に苦戦する納村は「なんもわからんなあオタクのことは!」という全オタクに突き刺さる名セリフを発する。(納村の二人称が「オタク」であるせいでこういうセリフがいちいち面白い) 続けた納村の「バケモノ」の言葉に反応してさとりの攻撃が一瞬粗くなるのだが、このときのさとりの演技、そして目線の演出などが、先ほどまでの「バケモノじみた」さとりとの微妙な対比で眠目さとりというキャラクターの演出に効果的で見事だ。納村はさとりの太刀筋から「神道無念流」の使い手であるとみたが、さとりはそれに「10点」をつける。さとりはそれからスタイルを変えながら納村を攻め続ける。納村はつぶやく。「まるでチャンポン剣法だ……」自分の言葉でひらめいた納村はさとりが10の剣法をより抜いた「警視流」の使い手であることを当てる。一つ当てれば「10点」とはそういうことだった。さとりは正解した「ご褒美」に「秘密の遊び」、剣術文字鎖を披露する。これはなるほど面白く、他の回でももっと見てみたかった。一方、脱衣所で戦う蕨も毒にやられ苦戦する。自分の体を自ら傷つけてまで勝利を掴もうとする蕨からは、五剣であることのプライドと同時に、納村への他のキャラとはまた少し違った感情も読み取れる。

苦戦する納村はさとりの「バケモノ」への反応、そして過去の蝶華、メアリの「ナニ」への反応を思い出し、一つの賭けに出る。ここで露天風呂から屋内風呂へ戻るのも主導権が移ったことを示していて面白い。納村は服をすべて脱ぎ、全裸になる。するとさとりは目線が泳ぎ、否、「ナニ」を凝視するか意図的に視線を外すかとなり、せっかくのさとりの強みは消え失せ、勝負は決する。「非人間的」だったさとりが「生理的」な反応を見せたことにより、納村は目の前にいる存在への「恐怖」を取り去ることができたのである。ギャグでしかなかった以前の「ナニ」目撃シーンや冒頭の勃起シーンを伏線として張る手腕は美しい。

さとりとの戦闘は、得体の知れなかったさとりに対し、納村が言葉と剣を通して少しずつ謎を解き明かしていき、ついには自分が全裸になることで、「ナニ」に対する反応からさとりが普通の女子であることを見抜いたことで勝負は決した。さとりの強さは「人間らしさがないこと」であり、さとりが「人間」であることを見抜くことこそが勝利への鍵だったのである。その点では蕨の相手も仮面をかぶっており誰かは分からないし表情も読めず、その謎めいたいで立ちはさとりとのシンクロしている。実際、仮面の女の正体はさとりの姉、ミソギであった。(本当はミソギがさとりなのだが。ややこしい)

「人間未満」と見られ、不気味だった眠目さとりをこの一話を通して「ヒロイン」の一人に参入させたということは、ハーレムアニメの中盤の回としても見事だった。上で書いたような演技や表情の微妙なブレもしっかり効いていた。そして戦闘シーンのアニメーション的な面白さが単純に自分の好みであり、総合してとにかく楽しかったというところからこの回を第3位に選んだ。一つ付け加えるならば、戦闘のなかでOPのさとりの剣に手を添えて突進するカットと同じカットが出てきたのも良かった。あと、一瞬しか出てないけどさとりの水色のブラ、かわいいよね……

 

 

 第2位:「ロクでなし魔術講師と禁忌教典」第2話「ほんのわずかなやる気」(春)

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 『ハンドレッド』以来(途中『魔装学園H×H』はあったものの)一年ぶりの「正統派」(要出典)ラノベアニメということで一部から大きな期待をかけられていたこのアニメ。1話から3話の流れはその期待を上回る出来だったと言えるだろう。その中でも1話のダメっぷりから一転、頼れる主人公っぷりを大いに見せてくれる気持ちよさが見事なこの2話は抜群だった。

1話ラストで決闘に「普通に」負けたグレンだったが、一向に授業(する側の)態度を変えることはなかった。システィはそんなグレンに魔術の偉大さを語る。「魔術はこの世界の真理を追究する学問よ」しかしグレンは問う。「何の役に立つんだ?」魔術が他の学問に比して何の役にも立っていないのではないかということを指摘され、苦し紛れに答えるシスティ。「魔術は、人の役に立つとか、そんな次元の低い話じゃないわ。人と世界の本当の意味を探し求め……」しかしグレンは決定的な一言を告げる。「魔術はスゲー役に立っているさ。人殺しにな」アバンでのこのやりとりが痺れる。現実世界でも、人文学系の研究はよくこう問われる。「それは何の役に立つの?」そしてその学問のことを真の意味で理解できていない人間はこう答えるだろう。「人の役に立つとかそういう次元の低い話ではなく……」つまり、「魔術」というファンタジー上の憧れ得べき概念を現実世界の立場の悪い学問とリンクさせ、「魔術」への漠然とした憧れの気持ちを一度壊しているのである。そしてその上で「魔術」の殺人という性格を拾い上げることで、再度「魔術」の持つファンタジー性を浮かび上がらせ、その上でこれまでの憧れた「魔術」像とは違った、ナマの「魔術」像を示した。それはシスティに対してはもちろん、視聴者に対してもである。CM明けAパートではこのセリフを受け、背景はぼやけ、システィとグレン以外のキャラクターは見えなくなる。しかしこの効果は、システィがグレンにビンタすることによって解ける。システィの感情の乗った「大っ嫌い!」は圧倒的だ。「ロクでなし」と呼ばれたグレンが魔術を「ロクでもない」と言っているのもいい。

「ガキは自分か……」とひとりごち、教師をやめることを決心したグレンだったが、一人魔術の練習をするルミアを見つけ、ほんの少しのアドバイスをする。いいところなしだったグレンが初めて見せた魔術講師らしい一面であり、このときのルミアの笑顔はシスティとの対比もあって印象的だ。その次のルミアがグレンに過去の話をする場面では、ルミアの影がグレンの影に重なるところがルミアのグレンへの寄り添いを示しているほか、ルミアの顔が夕日に照らされ、一方グレンの顔が影で暗くなっているところは、グレンの仄暗い過去と、輝く未来を持ったルミアの対比が効いていて美しい。そしてここから「ロクでなし魔術講師」グレンは「ほんのわずかなやる気」を見せ、一転して頼れるグレン「先生」となる。

まずグレンはシスティに謝る。そしてグレンは「授業」を始める。自身、一節詠唱もできなかったことで生徒にバカにされたショックボルトを例にとり、呪文と魔術の関係について講義する。三節詠唱を四節にすれば何が起こるか?の問いに誰も答えられず、耐えかねたグレンはこう言って四節詠唱のショックボルトを放つ。「右に曲がる、だ」このシーンはこれまでダメダメだったグレンがついに「講師」としてのカッコいい姿を見せてくれるシーンであり、大きなカタルシスを与えてくれる。右に曲がったショックボルトがシスティの目の前を通り、あたかも風が吹いたように髪がなびくところが気持ちよい。ここからまさに堰を切ったようにグレンの講義は流れていく。ショックボルト「程度」の呪文について自分たちの知らないことがこんなにもあり、そしてそれを他でもない一節詠唱もできないグレンによって教えられている、この生徒たちの唖然とした表情、前のめりの姿勢がたまらなく良い。そしてグレンは魔術について次のように言う。「魔術はな、人の心を突き詰めるもんなんだよ」その後のシスティをからかうシーンはラノベアニメのお約束。顔を赤らめるシスティーナ・フィーベル、かわいい。その次の「まあ/とにかく/痺れろ」による呪文起動には痺れる。そしてAパートの締めにはあの決めセリフだ。「興味ないやつは寝てな」

このセリフ、実はこの2話放送前からCMでたびたび流れていた。よってセリフだけは視聴者に刷り込まれていたが、グレンの頼れるところが出てこなかった1話時点ではただのギャグでしかなかった。しかしそのセリフが本編で最も効果的な場面で流れることで、ギャグでしかなかったセリフが一転して最高の決めセリフとなったのだ。ここまでの一連の主人公グレンへの評価の反転がこの2話の最高に気持ちいいところなのである。もちろん、この気持ちよさのためには1話も大きく貢献しているのだが。また、CMもちゃんと見ていることで、初めてこのセリフを最大限に気持ちよく感じることができるという点からは、CMも飛ばさずにちゃんと見ることの大切さを我々に再確認させてくれ、そして図らずもCMが本編への有効な伏線として機能した奇跡にわれわれは拍手を贈るのである。

さて、Bパートでは学園にテロリストたちが乱入する。Aパートがグレンの「講師」としてのカッコよさを見せるものであったのに対し、Bパートはグレンの「強さ」と「頼りがい」を見せるものであった。授業に遅刻したグレンは学園の違和感に気付く。一方教室にはルミアを狙う男たちが表れる。ここでは気丈なルミア、そして強がってはいるが恐怖が顔をのぞかせるシスティの対比が良い。この点においては、「か弱く見えるが心は折れないタイプ」のルミアよりも「強がって見せちゃいるが、自分の弱さに仮面付けて隠しているだけの」システィを××しようとするレイプ魔の意見に激しく同意だ。しかしこのレイプ魔、レイプ魔にしておくにはもったいないくらいのわかり手である。レイプ魔じゃなくてオタクになっていれば仲良くなれたかもしれない。(いや、それはどうかな……)レイプ魔と連呼してしまっているが、こいつを表すのにこれ以上しっくりくる言葉がないので仕方がない。システィは案の定下着を見られるとさっきまでの強気な声とは打って変わってか細い声で助けを求める。こうなればレイプ魔でなくともこう言ってしまう。「落ちんの早すぎだろ!お前最高」はっきり言ってこのシーンは単純にエロいし興奮する。「いっただっきまーす!」……ってお前はエロ同人読みすぎレイプ太郎か?

というところでグレン先生が颯爽と(?)登場。講義の中で説明していた固有魔術「愚者のアルカナ」を展開し、レイプ魔の「ズドン」を完全封殺。しかし自分も魔術起動できないという弱点を自ら暴露し、やっぱり頼りないと思わせてから一転肉弾戦でボコボコに。カッコいい。ひたすらカッコいい。思春期男子が憧れるシチュエーションを軽くやってのけるグレン先生カッコいい。「てめえナニモンだ!?」の問いにグレンは答える。「グレン・レーダス。非常勤講師だ」一回はやってみたい受け答えだ。そしてグレンはとどめにと「魔法の鉄拳マジカルパンチ」を繰り出す。そう、それはキックだった。「そこらへんがなんとなくマジカル!」最後のパンチという名のキックは、講義の中でグレンが言っていた「言葉の力」まさにそのものだと言える。パンチと言ったからにはパンチを繰り出してくるだろうと相手に思わせて実はキック、それはただの卑怯技と言えばそれまでだが、言葉の力を借りている技だということを踏まえると、それは確かに「なんとなくマジカル」なのだ。

1話でダメダメっぷりを発揮し底値を出したグレンが、一気に株を上げてひたすらにカッコいいところを見せる、その気持ちよさが素晴らしい。そんなロクアカ2話は正直初見時からベストテン入り確約といっていいほどであったが、この度見事2017年話数単位第2位に選出することができた。展開がわかっていて何度見ても気持ちがいい、これは本物の気持ちよさだ。

 

 

第1位:『プリンセス・プリンシパル』第6話「case18 Rouge Morgue」(夏)

女子高生(二十歳もいるけど)(そこがいい)×スパイ×スチームパンク。やりたいこと全部詰めたらめちゃくちゃ面白いアニメが出来てしまったというのがこの『プリンセス・プリンシパル』である。放送前にはほとんど話題には上っていなかったが、1話が放送されるとジワジワと評判になり、ついには世間的に夏クール覇権アニメにまで上り詰めた名実ともに名作のこのアニメ。基本的には一話完結ということもあって話数単位という選出方式にも相性は良かったということもあり、並みいる強豪たちを抑えてでもやはりこの6話は1位に選ばれざるを得なかった。

この回はドロシーとベアトリス、特にドロシーのメイン回だ。アンジェ、プリンセス、ちせはお留守番で、5人の中でも最も「スパイらしくない」二人が主となる。この二人のスパイらしくなさはその捨てきれない人間味にあり、それゆえこの回が屈指の人情回になったのは必然と言える。 今回の任務は死体漁り、アクションが必要ない分この二人だけでも十分に遂行できる任務であるが、それはそうとしてやりたくはない任務だ。なぜ自分なのかというドロシーの問いにセブンは答える。「その協力者があなたの知っている人だからよ」その協力者とは、ドロシーの父だった。

ドロシーは連絡役としてベアトリスを連れ、モルグへ向かう。ここでの会話からドロシーがベアトリスを連絡役に指名したのではないかと推察できるが、自分の実の父がいる場所に行くということは、自分の私生活が多少なりとも明らかになってしまう可能性が高い。それを踏まえてベアトリスを指名したことを考えると、ドロシーが(父親によって喉に機械を埋め込まれた)ベアトリスに対して少なからずシンパシーを感じ、心を許していたのだろうということがうかがえてよい。さて、モルグに着いた二人はさっそく働くことになる。仕事場に入って二人が最初に見た光景は、同僚に向かって暴言を吐く男の姿だった。ドロシーは顔を背ける。ベアトリスはそれを見てドロシーにつぶやく。「サイテーですねあの人」ドロシーの父はドロシーを見つけ、駆け寄る。「デイジー、デイジーじゃねえか!」ドロシーはなおも顔を背けたままだ。そして少しの拒絶を諦めで覆い隠したような表情で答える。「ああ。久しぶりだね、父さん」モルグという最低の場所で最低の父親と最低なシチュエーションで再会したドロシー。ベアトリスはその父親を普通に見て素直に最低だと言う一方、ドロシーは実の父親を真っすぐ見ることも素直に受け答えすることもできないでいるのだ。モルグから帰ったベアトリスがプリンセスとの会話の中でふとドロシーの父親の話題を出してしまうがすぐに話題を変えようとするところは、スパイとしての未熟さとドロシーへの気遣いが見えて良い。

モルグの人たち、その雰囲気も良い。「ここは訳ありの連中ばかりだ」とベアトリスに話す老人は屈託のない笑顔を見せながら「こうやって死人と働いてる方が落ち着くんだ」と言う。こんな老人がここでは「普通の人」なんだということが、静かにこの場所の異常性を映す。そんな中、ドロシーは父が借金取りに絡まれているのについ首を突っ込んでしまう。ドロシーに悪態をつかれ、声を荒らげて壁を殴った父に対しドロシーはスパイらしからぬ「本音」をぶつける。「本当のことでしょ!ケガしたって、頑張ってる人はたくさんいるよ!父さんはケガのせいにして逃げてるだけじゃない!」スパイと協力者という関係ではなく、子どもと親の関係になっているのだ。父は自分をコントロールできず、物に当たり散らす。このときのモルグの人たちの反応からは、これがいつものことで構ってはいけないことが察せられる。そこに構いにいったのは「新参者」でありドロシーの「友達」であるベアトリスだった。「あなた、お父さんなんでしょ!?だったらちゃんと、お父さんやってくださいよ!」自分の父親にひどいことをされたベアトリスが方向性は違うが同じくひどい父親に対して言いたいことを言うのだ。そして続いては一部の性癖の人をこれ以上なく興奮させた「友達の父親に改造された喉をいじくられるシーン」がくる。「やめてください!」の声が機械的に震えているところが個人的には非常に大変グッと来る。たぶんこの感覚はあんまり個人的でもないのだろうが。ベアトリスの喉がバレるのはおそらく大変マズいのだろうが、モルグという「訳あり」たちが集まる場所ということもあって、モルグの人たちの反応も「知らんぷり」で、こんな秘密を知られても、おそらくベアトリスのモルグの中での居場所は変わらないのだろうということが少し悲しい。そしてもう一つグッと来るのは、ドロシーに突き飛ばされた父が俺を置いて行かないでくれと泣き叫ぶシーンである。それを見たベアトリスは驚いたような、少しかわいそうだと思うような表情を見せ、一方でドロシーは苦虫を噛み潰したような表情で父を睨む。右側のドロシーとベアトリスに対して情けなく床に沈む父を左に配置した引きのカットでは、父のすぐ奥にある真っ暗で先の見えない階段が父の行く末を暗示しているかのようである。

そんな父を見た後、ドロシーはベアトリスに自分と父の身の上話をする。ドロシーは父について「自分をコントロールできないんだ」「弱い男だよ」と言う。しかしそれは自分自身のことを言っているようにも聞こえる。なぜそんな話を自分にするのかというベアトリスの問いにドロシーは答える。「私は、たぶんアンジェより弱いんだ」この二人の会話がとにかくいい。風になびく髪がいい。スパイでありながらスパイになりきれない二人が、ニセモノだらけの毎日の中にほんのわずかのホンモノを共有した時間だ。そしてここでは一部の性癖の人をこれ以上なく興奮させた場面第二弾、子ども時代のドロシーが父親に殴られるシーンが出てくる。父のそれは典型的なDVであるが、その「普通」さがとても悲しく、やるせない。一方でアンジェとプリンセスは壁をなくすことについて語り合う。こんな世界で再び会うことができたアンジェとプリンセス、こんな世界で再び会ってしまったドロシーと父。それはほんの少しだけうれしくて、やるせなく、悲しい。

さて、ドロシーとベアトリスはノルマンディー公との連絡手段を見つけるため、酔いつぶれた父を寝かせて家の中を探す。そこでドロシーはかつての楽しかった家庭の面影を見、ベアトリスも壁に貼ってあった写真と絵からそんなかつての家庭の切れ端を見つける。父が根っからのダメ人間ではなかったことが示され、十分にありえたかもしれない幸せな家庭を思うだに、各人のやるせない思いに胸が締め付けられそうになる。寝ぼけた父はドロシーを見て母親と勘違いするのだが、このときの「ドロシー」「デイジーだよ」の受け答えが本当にただただ良い。ドロシーが母親の名前をコードネームにしていること、今のドロシーが母親の面影を残していること、そして父はまだ幸せだったあの家庭のことを夢に見ていること……

しかしここで図らずも父からターゲットについて情報を手に入れる。父はそれについてただ「もうけ話」だと言った。「任務」で来ているドロシーはどうしても複雑な表情を浮かべてしまう。一方でノルマンディー公は「金のために動く人間が一番わかりやすい」と言っていた。「金のために動く人間」であったはずの父は、その後「娘のため」に欲をかき、ガゼルに始末されてしまう。親子の再会は最低だった父に生きる希望を与え、皮肉にもその希望によって父は死ぬことになるのだ。

そのころベアトリスとドロシーはついにターゲットを見つける。手のひらに十字を書いてドロシーに伝えようとするベアトリスがかわいい。ドロシーは暗号表をそのまま持って帰らず、書き写して元に戻す。ノルマンディー公に気付かれないように、そして父を助けるために。この優しさがまた、父を死に導いてしまうことになる。ドロシーが暗号表を父に渡すと、父は喜び勇んでモルグを出る。追いかけようとするドロシーと父の間をストレッチャーが遮る。死人を乗せたストレッチャーの向こうに行ってしまった父の「こんな人生オサラバだぜ!」の言葉を聞いたのを最後に、ドロシーは父と永遠に会えなくなる。わかりやすくて、だからこそストレートに悲しい、悲しい別れの場面だ。そこには笑顔があった。笑顔があったがその結末はあまりに予想がつき、なおかつあまりに悲しい。これまでと打って変わった優しいピアノの劇伴も効果的だ。ずっと汚いモルグにいた父が訪れたのはきれいな、それはきれいな教会だった。父は待っていたガゼルに取り引きをもちかける。悲劇の結末は加速する。

一方でドロシーとベアトリスは借金取りに出くわす。父親に売られたと思い込んだドロシーは手加減なしで借金取りたちをねじ伏せる。「ベアト!」と一言発して帽子を放り投げ、無言で借金取りたちを瞬殺するドロシーがカッコいい。この回唯一のアクションシーンでもある。そしてドロシーの父に対する誤解は解け、あとはパブで父を待つだけとなる。そしてその父はガゼルとの「取り引き」で、娘のためにと二倍の報酬を要求する。「金のため」つまり借金を返すため、過去の清算のためではなく、「娘のため」つまり未来のために動いてしまった。未来ある人間は信用できない。ガゼルはその場でドロシーの父、ダニーを殺す。「クソみたいな人生」とは永遠にオサラバとなる。さて、そうはいってもいずれにしろダニーは口封じのため殺されていたのではないかということは確かに考えられる。そもそもガゼルはご丁寧に斧まで持参していた。しかし、私はダニーの気持ちの変化がなければ、すなわち未来に希望なんてないダメ人間のままでいれば、殺されることはなかったのではないかと思う。いや、そう思いたいだけかもしれない。それほどまでにこの結末は、確かにありがちではある、ありがちではあるが胸を締め付けられるほどに悲しい。

ラストのパブのシーン、まさに感情もクライマックスのシーンだ。二人はありえたかもしれない幸せな未来、しかし二人が会うことのなかった未来に思いを馳せる。ベアトリスは「お父さんに感謝ですね」と言う。そこには初めて見たときの「最低な人」という感情はもうない。そしてベアトリスはドロシーの父の声でいつもドロシーが歌っていた歌を歌い出す。それは客全体での合唱になり、その歌声に送られるようにして、ダニーの死体はモルグに送られる。モルグの人たちの表情も良い。「遅いな、父さん」父を待つドロシーの少し頬を赤らめた表情は、少し酒に酔ったからなのか、それとも……

長々と、長々と書いてしまったが、この回はそれだけすべてのシーンがただ一つの予測可能な結末を効果的に見せるために存在していたといっていいだろう。何が起こるかわかっているのに、何度見ても感情を揺さぶられるように作られているのが本当に見事だ。私はこの回を初見で見たとき、終わってから「うわーん」と、本当に、それこそフィクションのような声を出して泣いてしまった。あまりクサいことを言いたくはないが、「無」からこれだけ感情を揺さぶるものが作れるなんて、アニメはすごいなあなどとしみじみ感じてしまった。そういったわけで、話数単位で選ぶなら、どうしてもこれを1位にするしかなかった。どうも私は家族と死が出てくる人情ものに弱いようだ。

 

 

 

 

というわけで5位から1位は以上の通りだ。ためてしまった分筆が走るままに書いていたら、明らかに読む人のことを考えていない文章量になってしまった。反省している。多いだけでなく時間も必要以上にかけてしまったので、2018年はもっと簡素に書いていきたい。まあ、自分で読み直して誰に対してでもなく頷くのが主な目的なので長くてもいいのはいいんだけれど。時間かかると続かなくなってしまうのが嫌なので。

 

さて、ベストテンに入らなかったものも含め、ノミネートした20本を以下に置いておく。一気見したのは3週間前なのですでに懐かしくもあるが……

 

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 ノミネートの中では

冬:4本

春:6本

夏:5本

秋:5本

とそれぞれバラけていたが、ベストテンの中では

冬:1本

春:3本

夏:4本

秋:2本

となり、順位も考えると春と夏に偏ったような結果となった。作品単位で考えると決してクールごとに大きな差があったとは考えていないが、話数単位だとそうなる、ということなのだろう。

今回のベストテンを眺めていると、面白い、笑える系統の話よりも良い話が多くランクインしているように思える。2016年の1位、アクティヴレイド第5話がどちらかと言えば笑って興奮してというタイプの話だったのに対し、2017年の1位、プリンセス・プリンシパル6話は泣いて感動してというタイプの話だった。しかし過去の自分に自分の好みを規定されることのないよう、今年もただ自分が「好きだ」と思える作品に出会うため、そのためにたくさんアニメを見ていきたい。

 

 

 

……しかしこの記事ほんとに長いな。