読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『君の名は。』を見まして、帰り道で一つだけ考えが至った

 

表題の通り。

 

今帰ってきてすぐにこれを書いていますが、なにぶん情報をシャットアウトしてきたもので、この程度の指摘はすでになされているとは思いながらも書いておきます。

 

考えが至ったこと、とはつまり、「みつは」と「たき」というこの物語の二人の主人公について、名字を呼ばれるシーンがほぼない、ということです。

少なくとも「たき」には一度もありませんでした。「みつは」も、「宮水」という呼び方は家や神社を表すときには出てきましたが、「みつは」個人を呼称するのに「宮水」という呼び方をされることはほとんどなかったように思います。授業で先生が呼んでいたのはありましたが。(クラスメートが「みつは」をいじるのに名字で呼んでいたかもしれないが一度見ただけなので記憶があいまい)

 

「たき」には「立花」という名字があり、それは家の表札、バイトの名札でわりあいしっかりと画面の中に出てきています。しかし彼が「立花」と呼ばれることは一度もなく、常に「たき」呼びです。

また逆に「たき」の名前は「瀧」であるのですが、「瀧」という名前を表す文字列が画面に出てくる場面はかなり少なかったように感じました。また、「立花瀧」と、名字と名前が一緒に出てくる場面はあったかどうか… はっきりとは言えませんがなかったように思います。

 

この作品においては、名前は「声に出して相手を呼称するもの」、名字は「文字として存在し視覚で識別するもの」という区別がなされていたと感じます。名前は映像の中の登場人物たちのためのもの、名字はその物語の外にいる観客たちのためのもの、と言ってもいいかもしれません。

最後のシーン、「みつは」が東京にいることを明示するシーンでは、「みつは」の家の表札「宮水」が映し出されることでそれが観客に明示されていました。

 

この話の主題であることろの、お互いがお互いの名前を覚えているといったとき、そこに名字の存在はありませんでした。

ふたりは相手のことを「みつは」「たきくん」としか呼びません。例えば「みやみず……みつは!」とか「たちばな……たき!」のようなフルネームで覚えておこうとは一度もなされません。クライマックスのお互いの感情が高ぶるシーンで、主人公とヒロインがお互いをフルネームで何度も呼び合うというシーンはなんとなくよくあるように思います(そうでもなかったらごめんなさい)が、この映画ではそれがない。

 

つまるところ、個人をその個人として記憶しておく、見つける、そして呼びかけるときに、そこに必要なのは名前であり、名字というものは、特に個人を個人として呼びかけるときに必要ではない、ということなのだと思います。

君の名は。」といったときの「名」に名字は含まれていない、のです。

 

もうすこしまとめられたら良かったのですが、とりあえずはここまでです。

 

公開3週間も経って初めて見て、まだ一回目なものですから、もしもうこの指摘はさんざんなされているとか、お前の言ってることはそもそも記憶違いでトンチンカンだぞということがあれば静かにスルーしてあげてください。

 

 

 

その他これだけは、という良かったところを二つ挙げさせていただくと、「たき」のバイト先の先輩(立花瀧なので記憶が薄れて名前が思い出せない)のお姉さんが喫煙者であることと、ラーメン屋のおっちゃんが「あの糸守は良かった」と言うところです。

 

 

あとはタイムパラドックス的な観点についてもう少し考えたいのですが、その辺の考察はさすがにたくさんありそうですね。

 

 

 

~~~以下、投稿1時間後の追記~~~

「立花」という名字は呼ばれることがない。それにしては「立花」は、「たき」のパートが始まると、表札、そしてバイト中かなり長い間映っており、画面の中でそれなりに存在していた。なぜだろうか。バイト中の名札、いらなくない?と思わなくもない。

それでもちょっとしつこいくらいに(この辺は個人差があると思います)画面に映していたのは、「たき」という呼称が名字ではなく名前であることをしっかりと観客にわかってもらいたかったからだと考える。「たき」だけ聞いたら普通の人はそれが名字だと思うだろう。そうではなく名前だとわかってもらうために、表札という明らかに名字をはめこむところに名字である「立花」をはめ込んだ。少し格式高い飲食店のバイトの名札という明らかに名前でなく名字をはめこむところに「立花」をはめ込んだ。「たき」が「立花」からくるあだ名とは考えにくそうである。そして、学校の友達はともかく、バイト先の同僚、先輩、そして厨房の人まで彼を「たき(くん)」と呼ぶ。

厨房スタッフがホールスタッフを名前呼びするのには少々違和感もあったが、それは親切すぎるほどのこの作品の意見表明であったのだろう。つまり、「この作品は『名字』ではなく『名前』を呼ぶことに意味を込めているのですよ」というメッセージを円滑に受け取ってもらうために必要なことだったと考えられる。

 

じゃあなんでそもそも名字と紛らわしい「瀧」なんて名前を"この"作品の主人公につけたのか?という疑問がある。「タカシ」とか「ヒロユキ」とかだったらそもそも初めから名字と間違いようがないのでは?

ここについては今のところよくわからない。名字と紛らわしいからこそ名前としての存在に価値がある、みたいなわかった風で全然わからない理由しか思いつかない。物語における名付けには必ずそこに意味があるはず、という考え方に立つならば、その名前にした意味があって、それを考えることもできるだろう。

しかし、物語の登場人物の名付けにはその(物語の中の)名付け親が考えた以上の意味はなくて、物語を創造する立場の者が名付けに意味を与える必要はない、との考え方をとるならば、本当に(物語上の)意味はなく、彼の両親だか祖父母だかまた別の人だかが「瀧」と名付けてしまったから、観客がそれを名字と間違えないように演出の方で表札とか名札を画面に映すようにした、と考えることもできる。

 

ちょっと妄想が過ぎたかもしれない。しかし、「名前」が大きなテーマになっているこの作品で「名付け」を無視することはできないだろう。この点は是非監督本人に訊いてみたいところだ。